尊王攘夷派と公武合体派
画像:The Sun第3巻-4項「孝明天皇御尊影」(博文館)
幕末では尊王攘夷派と公武合体派の2大思想が目立ちますが、そのほかにも、「佐幕派」や「勤王派」、「倒幕派」といった思想をもった派閥もいました。つまり、「誰を支持するか」「誰のために命を懸けるか」いろんな派閥があったわけです。
●尊王攘夷派・・・天皇を敬い、孝明天皇の意向に従って異国人を廃絶する派閥
水戸藩、長州藩など
●公武合体派・・・天皇と幕府が協力し合って政治を行うという思想をもった派閥
土佐藩、越前福井藩、宇和島藩など(当初は薩摩藩の島津久光も賛同)
(公武合体の思想が失敗し、「倒幕派」が誕生することになります)
●倒幕派・・・徳川幕府の廃絶を支持する派閥
長州藩、薩摩藩など
●佐幕派・・・徳川幕府を支持し、守ろうとする派閥
会津藩、桑名藩、新撰組など
●勤王(尊皇)派・・・天皇のために働く派閥
主に御陵衛士
●開国派・・・異国人との交流に前向きな派閥
●攘夷派・・・異国人との交流を拒絶する派閥
幕末のキーポイント
画像:「薩長同盟」の模型。右から桂小五郎、坂本龍馬、小松帯刀、西郷隆盛(龍馬歴史館)
動乱の時代と呼ばれ、日本が新しい国へ生まれ変わる分岐点となった幕末。
幕末の“引き金”となった井伊直弼をはじめ、高杉晋作や久坂玄瑞、西郷隆盛や大久保利通、勝海舟や徳川最後の将軍・徳川慶喜(一橋慶喜)、横井小楠や伊藤博文など、数え切れないほど様々な人物が関与していました。
そして、なかでも幕末を知るうえで欠かせないキーポイントが長州藩、薩摩藩、会津藩の動向です。
●井伊直弼
黒船来航に伴い、天皇や幕府の要職たちの意見を無視して独断でアメリカと条約を締結、開国。天皇の意向を軽視して鎖国を訴える攘夷派を過激に弾圧(安政の大獄)。これにより、幕府・朝廷・諸藩が分裂。
桜田門外の変で暗殺され、日本は尊王攘夷派と開国派にわかれ、のちに公武合体派の思想が失敗すると、やがて佐幕派と倒幕派に分裂し、徳川幕府が敗れると明治時代へ突入する。
●薩摩藩の動向
「尊王派」だが「徳川幕府」も大切。それほど「開国」に反対ではないが孝明天皇の「攘夷」にも納得できると微妙な立場の中、安政の大獄に巻き込まれて「井伊直弼」に弾圧される。
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桜田門外の変後、「公武合体」に賛同。しかし、「公武合体」が失敗すると、幕府を見限って長州藩と手を組んで(薩長同盟)「倒幕派」のリーダー的な存在となる。明治維新の戊辰戦争でも大いに活躍。
●長州藩の動向
最初から最後まで「尊王派」。迷うことなく、倒幕に賛同。初めは「攘夷派」だったが、のちに開国に納得する。高杉晋作や伊藤博文、桂小五郎や吉田松陰など、幕末の重要人物が数多く存在した藩。
英・仏・米・蘭の連合艦隊と戦争したり第一次長州征伐では薩摩+会津の幕府軍と戦ったり、とにかく「戦い」が尽きることなかった傷だらけの藩。長州藩の動向を知らずして幕末は語れません。
●会津藩の動向
「尊王」だけど「徳川幕府」に忠義があったが、井伊直弼の言動には反対。その結果、「公武合体」に賛同。だから、もちろん「倒幕」には反対。倒幕派の動きが強まると、「佐幕派」として幕府を擁護する立場になる。
藩主の松平容保は新撰組や京都見廻り組を配下につけ、京都の治安維持に尽力するなど幕府と朝廷に貢献。戊辰戦争では奥羽列藩同盟の諸藩が次々と降伏したが、最後まで倒幕派(新政府軍)と戦い続けた。
幕末には様々な思想・派閥があった
画像:戊辰戦争之碑「戊辰戦役の地」(新潟県三条市曲渕)
さて、今回は尊王攘夷派と公武合体派についてポイントをチェックしましたが、幕末には佐幕派や倒幕派など複数の思想や派閥があったことがわかります。また、長州・薩摩・会津の動向を知ると幕末の流れを理解しやすくなりますね。
いずれにしても、幕末を知るうえで欠かせない尊王攘夷派と公武合体派の思想。公武合体に関して言えば、倒幕派の主張が勝って一度は失敗したものの、のちに土佐藩の尽力により「大政奉還」として一時的に実現します。
しかし、それもまた、尊王派の「王政復古の大号令」によって打ち砕かれ、戊辰戦争で幕府は完全に消滅することになるのですが・・・。そうした流れを理解するうえでも、尊王攘夷や公武合体といった幕末に関する思想は把握しておきたいポイントですね。
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