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愛・正義・硬派、上杉家に尽くした忠義の武将「直江兼続」の生涯とは?(前編)

  兼続、家康と対立する


画像:徳川家康公之絵(徳川美術館)

秀吉は生前、「ほかの大名や家来と豊臣家の許可なく養子縁組を結んだらダメ」というルールを決めていましたが、秀吉の死後、その約束を破って家康は伊達政宗や福島正則と養子縁組しました。

三成は豊臣政権の五大老と五奉行を集めて話し合い、家康に猛抗議。面倒を避けた家康は素直に従って養子縁組を解消しましたが、安心したのも束の間。

五大老の前田利家が病死すると、再び家康は暴走し始めます。利家は家康と肩を並べるほどの立場でしたし、豊臣家の統制をとるうえで重要な人物でした。

利家の死後、家康は取り消した養子縁組を復活させ、そればかりではなく兵を増強したり城を改築したり、誰が見ても「次の天下人は俺だ」と言わんばかりの行動を起こします。

三成は各地の大名に家康の暴挙を記した書状を送り、あれこれ裏で段取りし、家康を倒す計画を立てますが、計画を実行するためには家康を大阪から離す必要がありました。

豊臣家の2代目・秀頼がいる大阪城を拠点にしていた三成は、京都の伏見城に在中していた家康を関西から遠ざけたかったのです。当然、その話は上杉家にも届きます。

兼続は、豊臣家の五大老である景勝の部下。家康の暴挙を易々と見過ごすわけにはいきません。上杉家は家康と対立する道を選び、大胆な行動で家康を挑発したのです。

まず兼続は、上杉家の領土である福井の道路や城の整備に取り掛かり、作業員という名目で兵を集め、武器を仕入れたり砦を造ったりして、いかにも怪しい行動でアピールしました。

少しイラっとした家康は、「どうして上杉は兵や武器を集めているの?誰かと戦うの??京都に来て説明させてよ」と知り合いの僧侶に仲介を頼み、謝罪の機会を与えようとしました。

  直江状の内容は?


画像:大関ヶ原展「直江状の写し」(江戸東京博物館)

僧侶の西笑承兌(さいしょうじょうたい)は「上杉に反逆の疑いがかかっています。今すぐに上洛して(京都に行って)説明してください」という内容の文章を書き、徳川の家臣に届けさせました。

伊奈昭綱と河村長門が福井まで出向き書状を渡し、口頭でも「家康から上洛の命令が出ている」と伝言を届けましたが、この要求を上杉家は断り、さらに兼続は家康を激怒させる書状を送り付けるのです。

家康に対して上洛を拒否する文面を書き綴った返事が「直江状」であり、やがて関ヶ原の戦いへ発展する火種となりました。では、直江状には、どのような内容が記されていたのでしょうか。

いろいろと我が主君(景勝)の悪いウワサが流れているようですが、どうぞ不安にならないでください。ウワサは、あくまでも推測。真実ではございません。

我が主君が上洛できない理由は、まだ会津に引っ越してきたばかりで領土の政治や情勢を整えている最中です。しかも、こちらでは雪が降っており身動きが取りづらい状況なので上洛は困難です。

どうしても疑わしいなら、会津の人たちに景勝が謀反を企てているか聞いてみてはどうですか。誰も、YESとは言いませんよ。なぜなら、そのような事実はないのですから。

上杉景勝は秀吉様が生きていた頃から「忠義の武将」として名の知れた人物です。なぜ、そこまで家康殿は景勝のことを疑っているのか理解できません。

はっきり言って「怪しい」と言っている人のほうが、何か後ろめたいことや企んでいることがあるのではないでしょうか。同じ豊臣家に仕える者として疑われている意味が理解できません。

我が領土の武士たちが武器を仕入れているのは、ただのコレクションです。関東や関西では茶器を収集するのが流行りみたいですが、田舎の侍は気性が荒いので鉄砲や刀を集めるのが趣味なのです。

道路や橋を整備しているのは交通の便を考えてのこと。当方の堀直政が、そちらに何を告げ口したか分かりませんが騒いでいるのは彼だけです。信用できないなら、実際に見物しに来てはいかがでしょう。

我々は兵を集めているのはありません。道路工事や橋の整備に必要な人員を集めているのですが、それが「たまたま地元の侍だった」というだけのこと。ご理解くださいませ。

先日、当方の家臣である藤田信吉が江戸に行き、いろいろ「あること・ないこと」ベラベラ喋ったと聞きました。しかも、疑いを晴らしたければ事実を述べよ、と藤田を追求しましたよね。
その際に藤田が景勝の悪口を言ったそうで、褒美を与えたと聞いております。昨日まで反逆の疑いをかけられていた者が上洛して家康殿の機嫌をとれば褒美を貰えるなど、そんな道理が通りますか。

誰が、どこで我が主君の悪口を言っているか存じませんが、あれこれ良からぬウワサや陰口を吹き込む者は思慮や分別がない輩(やから)。そんな愚か者を相手にする必要はありませんよ。

つまり、直江状とは、「上洛して説明しなさい」と要求した家康に対し、兼続が「上杉に非はない」と理由を述べたうえで「京都には行けない」と断った書状です。

直江状の原本とされるものが存在していますが実物の確証はなく、あまりにも長文で内容が過激なことから後世に書き直された“写し”という見方が強いようです。

しかし、家康が兼続の書状や対応に腹を立て、会津征伐(上杉征伐)に発展したことは確か。この時代、正面から堂々と家康に意見し、「文句あるなら来いよ」と挑発した男は、おそらく兼続だけでしょうね。

   関ケ原の戦いと山形の激戦


画像:関ケ原古戦場(岐阜県不破郡関ケ原町)

直江状に怒った家康は上杉家を服従させるために大軍を率いて会津征伐へ出陣します。こうして徳川の勢力を関西から遠ざけることに成功したわけですが、家康もバカではありません。

あらかじめ大阪城にスパイを忍ばせ、もし三成に不穏な動きがあれば情報が入るように準備していました。

そうとは知らない三成は家康の領土である伏見城や津城を攻め落とし、着々と計画を進行します。兼続は徳川軍を迎え撃つために兵を集め、いつでも「かかってこいや!」の状態。

そして、福島に向かっている最中の家康に大阪城のスパイ(増田長盛)から「三成が動き始めた」との報告が入ると、家康は計画を変更し、三成がいる岐阜の大垣へと進路を変えたのです。

「さぁ!一気に徳川の領地を制圧するぞ」と意気込む三成に思いもよらない報告が・・・。

家康が上杉征伐を中止し、すでに愛知まで引き返していることを知ります。家康が率いる徳川軍(東軍)は1600年10月20日に美濃赤坂(岐阜県大垣市赤坂町)へ到着。

計画が台無しになった三成は仕方なく家康と戦うことを決断し、大垣城から近い場所にある関ケ原が合戦の舞台となり、1600年10月21日の早朝に「反徳川(西軍)」対「東軍」が衝突します。

一方の兼続は徳川軍が引き返して肩すかしをくらった状況。上杉家の標的は徳川から最上に変わり、時を同じくして山形でも西軍と東軍が激戦を繰り広げることになるのです。

後編は、こちら↓
愛・正義・硬派、上杉家に尽くした忠義の武将「直江兼続」の生涯とは?(後編)

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