歴史ハック https://rekishi-hack.com 教科書とは違った視点から歴史を読み解くメディア Wed, 13 Nov 2019 01:08:11 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=4.9.3 150616935 信長公記・11巻その6 「安部良成の服従」 https://rekishi-hack.com/shincho_11_6/ Wed, 13 Nov 2019 01:08:11 +0000 https://rekishi-hack.com/?p=2294 信長公記・11巻その6 「安部良成の服従」

信長公記・11巻その6 「安部良成の服従」
画像:大和田城跡(兵庫県尼崎市)

安部良成の服従

蜂須正勝を通じて信長に服従を申し入れてきた(大阪市西淀川)の城主・安部良成(安部二右衛門)と芝山源内(いずれも村重の家臣)は、1578年12月29日(天正6年12月1日)の夜に小屋野(伊丹市昆陽。有岡城から西に直線の場所)の本陣を訪れて信長に御礼を述べた。

信長は褒美として金200枚を与えた。しかし、良成の父親と伯父が「石山本願寺と荒木村重を裏切るのは許さない。織田への服従には同意できない」と良成に抗議し、大和田城の天守に立て籠もったのである。

良成は二人を説得したが、聞き入れてもらえなかった。良成は服従を白紙に戻すために褒美として預かっていた金200枚を芝山源内を信長のもとへ遣わして返上し、服従せずに敵対することを父親と伯父に表明した。

信長は「それならば仕方ない」と承諾した。良成は阿閉貞征と蜂屋頼隆の陣地へ進軍し、鉄砲で攻撃するという戦略を父親と伯父に提案し、この動きに二人は満足しきっていた。

しかし、この一連の流れは父親と伯父を騙すための良成が講じた策略だった。まずは二人を安心させ、伯父を荒木村次(村重の息子)と共に大阪に向かわせ、今後も協力する意向を石山本願寺に伝えさせた。

そして、完全に安心して天守から降りてきた父親を良成は捕らえ、人質として京都に届けさせたのである。31日、再び良成は小屋野の本陣を訪れ、信長に一連の出来事を話したうえで服従を申し入れてきたのである。

これを聞いた信長は服従の誓いを上回る良成の働きぶりに感銘を受け、腰に差していた左文字の名刀を与え、完全装備の馬も与えたのであった。

さらに、信長は良成に金200枚を与え、川辺(兵庫県川辺郡猪名川町)の統治も任せた。なお、このとき、芝山源内にも馬が与えられた。

1579年1月1日(天正6年12月4日)、滝川一益と丹羽長秀は一ノ谷(神戸市須磨区)を焼き払っていた部隊を引き返させ、塚口村(伊丹と大阪をつなぐ中間地点。尼崎市塚口本町)に砦を築いて陣を構えた。

信長公記・11巻その6 「安部良成の服従」
画像:有岡城跡(兵庫県伊丹市伊丹)

1月5日の酉の刻(午後6時頃)に織田の軍勢は有岡城(伊丹市伊丹)を包囲し、攻撃態勢に入った。信長は菅屋長頼、堀秀政、万見仙千代に鉄砲隊を率いさせ、城の町口(門の一つ)に銃を乱射させた。

次に弓衆の中野又兵衛、平井久右衛門、芝山次大夫が城下の屋敷や家々に火矢を放った。酉の刻から亥の刻(午後10時頃)まで有岡城に攻撃を加えたが敵は塀で抗戦し、しぶとく守り続けていた。

戦いの最中、織田の家臣である万見仙千代が戦死した。1月8日、信長は伊丹・高槻・茨木の周囲に砦を構築するように命じたあと、小屋野(伊丹市昆陽。有岡城から西に直線の場所)から古池田(大阪府池田市)に陣を移した。

なお、各砦の守備を命じられたのは次のとおりであった。

塚口村砦(兵庫県尼崎市)・・・織田信孝、丹羽長秀、蜂屋頼隆、高山右近、蒲生氏郷
毛馬村砦(兵庫県尼崎市)・・・織田信包、織田信雄、滝川一益、武藤舜秀
倉橋村砦(大阪府豊中市)・・・池田恒興、池田元助、池田輝政
原田村砦(大阪府豊中市)・・・古田佐介
刀根山砦(大阪府豊中市)・・・氏家直通、稲葉一鉄、芥川氏、伊賀平左衛門
郡山砦(大阪府茨木市)・・・織田信澄
古池田砦( 大阪府池田市)・・・塩川伯耆守
賀茂砦(兵庫県川西市)・・・織田信忠
高槻城(大阪府高槻市)・・・高山右近、湯浅甚介、武田左吉、牧村長兵衛、大津伝十郎、生駒市左衛門、生駒三吉、村井作右衛門、猪子次左衛門
茨木城(大阪府茨木市)福富秀勝・下石彦右衛門・野々村三十郎
中嶋砦(大阪市東淀川)・・・中川清秀
大和田城(大阪市西淀川)・・・安部良成

さらに信長は、佐久間信盛、筒井順慶、明智光秀らの部隊に羽柴秀吉の部隊を援護につけ、播磨(兵庫県南西部)に進軍させ、村重の勢力である有馬郡の三田城(兵庫県三田市)への備えとして道場河原砦と三本松砦(いずれも神戸市)を築かせ、羽柴秀吉の兵を入れた。

その後、信盛らの部隊は播磨へ入り、別所長治が立て籠もる三木城(兵庫県三木市)に出撃する織田の兵らに兵糧や鉄砲、弾薬などを届けて有岡城に向かった。

八上城の包囲

明智光秀は播磨を出発して丹波(京都府中部、兵庫県北東部、大阪府北部)に攻め入り、波多野秀治(別所長治の同盟者)の居城である八上城(兵庫県篠山市)を包囲した。

八上城の周囲12キロメートルを兵で囲み、堀を作って塀や柵を二重、三重に築き、堀の周辺に陣営を構えて砦のように仕上げた。そして、昼夜を問わず厳重に警固や監視を行い、猫一匹も逃がさない勢いで包囲した。

一方、信長はパラパラと雪が降り始めた1579年1月18日(天正6年12月21日)に古池田から京都へ入り、1月22日に安土城へ帰還した。

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信長公記・11巻その5 「荒木村重の謀反」 https://rekishi-hack.com/shincho_11_5/ Tue, 12 Nov 2019 01:13:41 +0000 https://rekishi-hack.com/?p=2288 信長公記・11巻その5 「荒木村重の謀反」

信長公記・11巻その5 「荒木村重の謀反」
画像:歌川国芳・画「荒木村重」(伊丹市立博物館)

有岡城の戦い

1578年11月20日(天正6年10月21日)、荒木村重に謀反の兆候がある(織田に敵対する石山本願寺に寝返る)との報告が信長に届いた。

しかし、この情報を信長は信用せず、明智光秀、松井友閑、万見仙千代を村重の居城である有岡城(兵庫県伊丹市)に向かわせて「何か不満があるなら信長が望みを聞き入れる」と伝えさせた。

村重は「野心や思惑などない」と答えた。この返事に信長は安心し、念のため人質として村重の生母(生みの親)を差し出す約束を交わさせて安土城へ来るように命じた。

とろこが、すでに村重は謀反を決意したあとであり、信長の呼び出しを無視して来なかった。

もともと村重は一介の地侍だったが、足利義昭が信長に敵対したとき、真っ先に信長へ服従を誓った功績によって摂津国(大阪府北中部と兵庫県南東部)の統治を任される立場にまで昇格したのであった。

それにもかかわらず、村重は恩義を忘れてしまい、ついには逆心を抱いてしまったのである。

もはや村重の謀反は周知の事実であり、信長は「こうなったら仕方ない」と言い、安土に稲葉一鉄、不破光治、織田信孝、丸毛長照を残して12月1日に京都へ入った。

信長は再度、羽柴秀吉、明智光秀、松井友閑を有岡城へ向かわせて説得させたが、村重が応じることはなかった。

また、石山本願寺の周りには石山本願寺の動きを監視するために信長が築かせた砦があり、ここに信長は側近(小姓や馬廻、弓衆)を観察役として派遣していた。そうした側近らを村重は石山本願寺への手土産として殺すという噂まで信長の耳に入ってきたのだ。

信長は側近らを保護しようと考えたが、もはや策を講じる時間が間に合わず申し訳ないと思っていた。しかし、勘が働いた砦の武将らが側近らを護衛して信長のもとへ送り届けてくれた。

信長は彼らの功績を称え、「誠に見事な働きである」と言って褒美の衣服を与えた。

一方、堺(大阪府堺市)では12月4日に中国地方の水軍(毛利水軍)600隻が木津川口(大阪市大正区)に進軍してきた。

織田軍の九鬼嘉隆が船団を率いて出撃しようとしたが、一早く毛利水軍は九鬼の水軍を包囲して攻撃を仕掛けてきた。戦いは木津川口の海上において4日の辰刻(午前7時~9時)から夕方まで続いた(第二次木津川口の戦い)。

信長公記・11巻その5 「荒木村重の謀反」
画像:九鬼嘉隆の肖像(常安寺)

船の数など表向きの戦力を考慮すると、状況から考えて九鬼の水軍が毛利水軍を蹴散らすというのは不可能に思われた。しかし、九鬼の船6隻と白船(鉄甲船)1隻は鉄製で、さらに複数の大砲が備わっていた。

近くまで敵の船団を引き寄せ、大将が乗っていると思われる船に的を絞って大砲を放ち、壊滅的なダメージを与えた。すると、敵の船団は勢いがなくなり、九鬼の水軍から離れて大阪湾まで退いた。

12月7日、信長は5万の兵を引き連れて摂津へ進軍し、山崎(摂津国と山城国の境)に陣を構えた。

摂津国・・・大阪府北中部と兵庫県南東部
山城国・・・京都府南部

翌日、明智光秀、丹羽長秀、滝川一益、氏家直通、稲葉一鉄、蜂屋頼隆、安藤守就に芥川(大阪府高槻市)・糠塚(大阪府茨木市)・大田村(茨木市)・猟師川(茨木川)で陣を構えさせ、大田村の北の山(茨木市三島丘)に砦を築かせた。

また、織田信忠、織田信孝、織田信包、織田信雄、前田利家、佐々成政、不破直光、金森長近、原長頼、日根野備中、日根野弥次右衛門らの部隊も摂津に入り、天神馬場(大阪府高槻市)で陣を構えた。

そして、信長は信忠らに天神山砦(高槻市天神町)を築かせた。信長は山崎から安満(高槻市八丁畷町)に移動し、周辺を見渡せる小高い山に陣を構え、麓に簡易的な砦を築かせた。

さて、高槻城の城主である高山右近はキリスト教徒(キリシタン)であり、荒木村重の家臣だったが、信長は右近を服属させるために策を講じた。信長はカトリックの宣教師を呼び出し、ある条件を申し付けた。

それは、「右近に織田へ服従するよう説得したら褒美として望みの場所にキリシタンのための寺を建造してやろう。これを断るならキリシタンを永久的に追放する」というものだった。

宣教師は断れるはずもなく、承諾するしかなかった。そして、羽柴秀吉、佐久間信盛、松井友閑、大津伝十郎に連れられて宣教師は有岡城に向かい、右近の説得を試みた。

右近は荒木村重に人質を差し出していたが、「小鳥を犠牲にして多くの鳥を救う」ことがキリシタンの繁栄につながると考え、宣教師の説得に応じて高槻城を信長に明け渡し、織田に服従することを誓った。

その矢先、大田村の北の山(大田村砦。大阪府茨木市三島丘)の砦が完成したとの報告が届いた。信長は不破直光、前田利家、佐々成政、原長頼、金森長近、日根野弥次右衛門、日根野備中に砦の守備を任せた。

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信長公記・11巻その4「安土城の大相撲」 https://rekishi-hack.com/shincho_11_4/ Mon, 11 Nov 2019 01:02:53 +0000 https://rekishi-hack.com/?p=2279 信長公記・11巻その4「安土城の大相撲」

信長公記・11巻その4「安土城の大相撲」
画像:織田信長公相撲観覧図(両国国技館)

安土城の大相撲

1578年9月16日(天正6年8月15日)、信長は近江(滋賀県)と京都の相撲取り1500人あまりを安土城に呼び寄せて相撲大会を催し、辰の刻(午前7時~9時頃)に始まり、酉の刻(17時~19時頃)まで行われた。

また、家臣や旗本の武将らも腕っぷしの強い者を参加させた。行司は木瀬太郎大夫と木瀬蔵春庵が務めた。

相撲大会の仕切り(奉行)を任せられたのは、織田信澄、万見仙千代、堀秀政、青地与右衛門、蒲生氏郷、布施藤九郎、木村源五、村井作右衛門、永田刑部少輔、後藤喜三郎、阿閉貞大であった。

なお、相撲大会は小相撲の五番打と大相撲の三番打※で行われた。参加した主な力士は次のとおりである。

  • 小相撲五番打の力士
    京極家中、江南源五、木村源五家中、深尾久兵衛、布施藤九郎小者、勘八、堀秀政家中、地蔵坊、後藤家中 麻生三五、蒲生中間、藪下
  • 大相撲三番打の力士
    木村源五家中、木村伊小介、瓦園家中、綾井二兵衛尉、布施藤九郎家中、山田与兵衛、後藤家中、麻生三五、長光、青地孫次、づかう、東馬二郎、たいとう、円浄寺源七、大塚新八、ひしや

<補足>

小相撲・・・ 相撲取りの弟子、または地位の低い力士

大相撲・・・一人前の力士、または名が知られた力士

※現代の大相撲の意味合いとは異なる。当時は「武家相撲」という

五番打・・・一人の力士が5人抜きする取組(勝ち抜き戦)

三番打・・・一人の力士が3人抜きする取組(勝ち抜き戦)

相撲大会が終わった頃、すっかり辺りは薄暗くなっていた。ここで信長は、阿閉貞大と永田刑部少輔の取組が見たいと言い出した。貞大と永田の腕っぷしの強さは日頃から評判だったからだ。

奉行の、蒲生氏郷、堀秀政、万見仙千代、後藤喜三郎、布施藤九郎、阿閉貞大、永田刑部少輔が取組を行ったが、とくに貞大は噂通りの強力で見事な戦いっぷりだったが、勝ったのは永田であった。

信長公記・11巻その4「安土城の大相撲」

信長は参加した力士たちに褒美の品々を与え、評価の高い力士は召し抱えられる(家来として雇われる)ことになり、その者たちには太刀と小太刀(脇差)、衣服一式と100石の領地、住まい(屋敷)まで与えられた。

なお、信長が召し抱えた者たちは次のとおりである。

大塚新八、東馬二郎、水原孫太郎、助五郎、村田吉五、麻生三五、青地孫次、山田与兵衛、円浄寺源七、づかう、たいとう、あら鹿、ひしや、妙仁

9月17日、播磨(兵庫県南西部)から信忠が安土城へ戻ってきた。すると信長は10月9日に再び相撲大会を催し、信忠と織田信雄に見物させた。

10月15日、信長は大阪の砦※で守備している武将や兵らの観察役として小姓や馬廻、弓衆を砦に派遣し、彼らは20日交替で観察を行い、信長に状況を報告した。

※(1576年6月~7月に起きた天王寺の戦いで石山本願寺の勢力に勝利した信長は、石山本願寺の周囲に4つの砦(出城)を築き、天王寺の砦には松永久秀、佐久間信盛、佐久間信栄、進藤山城、進藤久通、池田孫次郎(秀雄)、青地千代寿、山岡景宗、水野監物らを置いて守備させた。また、住吉(住吉区)の海岸近くにも砦を築いて沼野伝内と真鍋七五三兵衛に海上の警備を命じていた)

信長は22日に安土を出発して京都に向かい、途中で山岡景隆の瀬田城(滋賀県大津市)に泊まった。翌日、二条殿(二条晴良の屋敷跡に建てた信長の新しい屋敷。1576年7月21日に完成。京都市中京区両替町通御池上る東側)に入った。

なお、10月14日には斎藤新五(斎藤利治。斎藤道三の末っ子で信長の家臣)が越中(富山県)で行動を開始していた。(越中の制圧、または侵攻は信長包囲網を崩すための信長の戦略)

越中の太田保(富山市)では上杉謙信(謙信は1578年4月に他界している)の家臣である長尾景直(椎名小四郎)と河田長親が津毛城(富山市大山)を守備していた。

しかし、斎藤新五が率いる織田軍(尾張・美濃の兵)が津毛城に進軍していることを知ると、景直と長親は城を兵を引き連れて退散してしまった。

戦わずして津毛城を手に入れた新五は神保長住を津毛城に入れ、そこから12キロメートルほど離れた場所に陣を構えて越中の制圧に向けて兵を動かしていた。

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信長公記・11巻その3 「神吉城の戦い」 https://rekishi-hack.com/shincho_11_3/ Fri, 08 Nov 2019 01:25:22 +0000 https://rekishi-hack.com/?p=2273 信長公記・11巻その3 「神吉城の戦い」

信長公記・11巻その3 「神吉城の戦い」
画像:神吉城跡

神吉城の戦い

1578年7月30日(天正6年6月26日)、播磨(兵庫県西南部)に在留している織田軍のうち、明智光秀、滝川一益、丹羽長秀の部隊は三日月山(兵庫県佐用郡)へ登り、羽柴秀吉と荒木村重の部隊は高倉山(兵庫県佐用郡)の陣を払って書写山(兵庫県姫路市)に移動した。

31日には織田信忠の軍勢が神吉城(兵庫県加古川市)を包囲し、城の北から東の山にかけて信忠、織田信孝、細川藤孝、佐久間信盛、林秀貞らの部隊が左右にわかれて攻撃態勢に入った。

一方、志方城(加古川市志方町)では織田信雄も城を包囲し、丹羽長秀と若狭州(福井県南部から敦賀市を除いた地域の勢力)は城の西の山で援護に備えた。

そして、滝川一益、明智光秀、蜂屋頼隆、稲葉一鉄、荒木村重、武藤舜秀、安藤守就、筒井順慶、氏家直通らの部隊は神吉城を目掛けて突撃し、城壁の守備を打ち破って城は無防備になり、城壁を崩して城内に攻め入った。

このとき、織田信孝が足軽と先を争って城へ乱入したが、敵兵の銃撃に苦戦した。戦いは大混戦となり、多くの負傷者や死者が出た。織田軍は一気に城を落とすのは難しいと判断し、ひとまず兵を引き揚げて翌日を待った。

8月1日、敵兵の銃撃に備えて竹束(竹を束ねて作った銃弾除けの防具)を携え、城の塀まで進軍して堀を草で埋め、築山(人工的に築く小山)を作り、城に攻め入った。

播磨への侵攻が進むなか、羽柴秀吉は但馬(兵庫県北部)に進軍していた。そして、但馬を縄張りとする武将や勢力を服属させ、竹田城(兵庫県朝来市)に羽柴秀長を入れてから書写山(兵庫県姫路市)へと引き返した。

一方、神吉城では敵兵が手薄となっていた城の南から織田信包が攻め寄せた。神吉城に敵兵の援護部隊が来る動きもみられず、西の山で待機していた丹羽長秀と若狭衆も城攻めに加わった。

丹羽の部隊は城の東に配置し、井楼(井桁を組んで作る高所から敵を見張るためのヤグラ。井桁の形で組んだ材木の隅に切り込みを入れて積み上げていく建築構造)を2つ築いて城内へ大鉄砲を打ち込んだ。

そのあとで、城の塀まで進軍して堀を草で埋め、築山(人工的に築く小山)を作って城に攻め入った。滝川一益は城の南から丹羽の部隊に加わり、金堀衆(金や銅を掘る職人たち)を導入し、井楼を組み、大鉄砲で塀や櫓を破壊して城内へ火を放った。

そのほかの部隊も井楼や築山を用いて昼も夜も途絶えることなく猛攻を続けた。窮地に追いやられた敵勢は降伏を申し入れてきたが、これを信長は認めずに攻勢を崩さないよう家臣らに申し伝えた。

信長公記・11巻その3 「神吉城の戦い」
画像:別所長治の肖像(兵庫県立歴史博物館)

神戸から明石、明石から高砂、どちらも距離が遠く、海上から攻め寄せる敵の水軍に備えて警固が必要であると考えた信長は、8月2日、織田信澄に山城衆(京都府南部の勢力)を預けて現地に向かわせ、信長の側近である万見重元を派遣した。

信長は、警固および海上の監視に最適な要所を抑えて部隊を置くように指示し、信澄と重元は条件に合う山※を見つけて砦を築き、その砦に部隊を置いた。重元は信長のもとへ戻り、状況を報告した。

※<補足>

神戸~明石、明石~高砂は距離が遠く、中国地方の水軍(毛利・小早川・宇喜多・因島村上氏・能島村上氏・来島村上氏の連合水軍。つまり、毛利水軍である)が水上から攻め寄せたときの対応が懸念されていた。

神戸・明石・高砂は播磨攻めにおいて重要な地域であり、これらの地を掌握するのは信長にとって必須だった。そこで、信長は神戸・明石・高砂を監視できる拠点を作るように織田信澄に命じ、側近の万見重元を派遣した。

そして、神戸と高砂の中間にある明石の大窪に監視するための砦を築いた。現在は明石市大久保町大窪中之番という地名になっており、「中間」の「番所」という意味合いでないかと思われる。

また、山陽道に近い場所で、北には三木城(兵庫県三木市)があり、西には神吉城(兵庫県加古川市)もあり、播磨攻略の重要拠点として大切な場所だったと言える。

さらに、信忠は信澄が築いた監視の砦に近い街道(山陽道)を簗田広正、林秀貞、市橋長利、浅井新八、塚本小大膳、中島勝太、和田八郎らに交代で警固させた。

8月11日の巳の刻(午前10時から正午までの2時間)、金蓮寺(京都市北区。時宗四条派の寺院)の衆寮(僧侶らのための寮舎)から出火するという出来事が起きるなど、世間では火事や不審火が頻発していた。

18日の夜、丹羽長秀と滝川一益の部隊は神吉城の東の丸に突入し、19日には中の丸へ攻め込んで城主の神吉頼定を討ち取った。そして、天守に火を放ち、天守が崩れ落ちると多くの敵兵が焼け死んだ。

このとき、荒木村重は西の丸から攻め込んでいた。城内では神吉藤大夫が抗戦していたが、しばらくして藤大夫が開城を申し入れてきたので、佐久間信盛と荒木村重は志方城(加古川市志方)への退去を条件に降伏を許した。

神吉城は陥落し、やがて織田信雄と丹羽長秀らが攻めていた志方城も落城し、これらの城の処置は播磨攻めの主導である羽柴秀吉に一任された。

神吉、志方を制圧した織田軍は別所長治が立て籠もる三木城へ進軍し、周辺に砦を築いて陣を構えた。

九鬼嘉隆の大船

信長公記・11巻その3 「神吉城の戦い」
画像:九鬼嘉隆の肖像(常安寺)

信長は大船6隻の製造を九鬼嘉隆に命じていた。さらに、滝川一益には白い大船(鉄甲船)を1隻、造るように命じていた。

1578年7月30日(天正6年6月26日)、九鬼嘉隆は完成した7隻の船団を率い熊野(歌山県田辺市)を出発し、海上で大阪湾に向かった。

渡航中、雑賀二組※(雑賀荘と十ヶ郷)や大阪の勢力(石山本願寺に加勢する者たち)が乗る小舟が淡輪(大阪府泉南郡岬町淡輪)の海上で攻撃を仕掛けてきた。

※(雑賀二組とは雑賀衆の内、雑賀荘と十ヶ郷の勢力。雑賀衆は和歌山市の雑賀荘・十ヶ郷・中川郷・三上郷・宮郷の5つの地域の地侍らで構成された武装集団。そのため、雑賀衆は雑賀五組とも呼ばれる。信長の戦力である中川郷・三上郷・宮郷(雑賀三組)に対し、雑賀荘と十ヶ郷(雑賀二組)は石山本願寺の戦力である)

敵船は九鬼の船団に次々と矢や銃弾を放ち、四方を込んで攻め立ててきた。

対する九鬼の船団は大砲で一斉砲撃して多くの敵船を撃沈させた。海上戦は九鬼の圧勝に終わり、渡航を続けて8月20日に堺(大阪府堺市は大阪湾に面している)に着いた。

21日には大阪湾に入り、要所に船を配備して大阪湾を封鎖した。これにより、中国地方の水軍(毛利水軍)は海上から大阪へ上陸するのが難しくなったのである。

話は変わるが、信忠は鷹4羽を岐阜城の庭で飼っていた。いずれも立派に育て上げた信忠は、鷹匠(鷹の飼養や調教、鷹狩を司る名人)と呼ぶにふさわしい人物であった。

8月26日、信忠は、その4羽の鷹を鷹匠の山田と広葉に持たせ、安土城の信長のもとへ届けさせた。なお、このとき信忠は三木城の戦いに備えて播磨(兵庫県西南部)の三木(三木市)で陣を構えていた。

信長は1羽の鷹を頂戴し、残り3羽は持ち帰らせた。鷹匠に褒美として銀五枚と衣服を一人ずつに与えた。

また、9月5日には津軽(青森県西部)の南部宮内少輔(南部季賢)から信長へ鷹5羽が贈られた。9月11日、信長は南部季賢の使者を万見仙千代の屋敷に迎え、宴を開いて返礼のもてなしを行った。

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信長公記・11巻その2 「安土城の相撲大会」 https://rekishi-hack.com/shincho_11_2/ Thu, 07 Nov 2019 01:04:00 +0000 https://rekishi-hack.com/?p=2268 信長公記・11巻その2 「安土城の相撲大会」

信長公記・11巻その2 「安土城の相撲大会」
画像:織田信長相撲観覧図(両国国技館)

安土城の相撲大会

1578年4月6日(天正6年2月29日)、近江(滋賀県)に住む相撲取り300名を安土へ呼び寄せ、安土城で相撲大会を催した。信長は腕っぷしの強い23名を選抜して競い合わせ、褒美として彼らには扇を与えた。

選抜された力士は次のとおりである。

日野長光、地蔵坊、東馬二郎、大塚新八、正権、木村いこ助、円浄寺、山田与兵衛、太田平左衛門、あら鹿、たいとう、平蔵、づこう、力円、宗永、周永、青地孫二郎、村田吉五、下川弥九郎、麻生三五、草山、助五郎、妙仁

なかでも信長が感心したのは日野長光で、信長は長光を呼んで骨に金銀を施した扇(平骨濃塗りの扇)を与えた。なお、このときに行司を務めたのは木瀬蔵春庵と木瀬太郎太夫であり、これらにも衣服が与えられた。

4月12日、信長は鷹狩を行うために奥の島山(滋賀県近江八幡市)に登り、長命寺に泊まった。3日ほど滞在して鷹狩を楽しみ、14日に安土城へ帰還した。

29日、信長は京都へ入り、二条殿(二条晴良の屋敷跡に造った信長の屋敷。京都市中京区両替町通御池上る東側)に滞在した。そして、5月10日に信長は大阪方面に軍を向かわせた。

総大将の信忠は尾張(愛知県西部)・美濃(岐阜県南部)・伊勢(三重県の北中部、愛知県弥富市の一部、愛知県愛西市の一部、岐阜県海津市の一部)の勢力を従えて進軍した。

さらに、織田信雄、織田信孝、織田信包、織田信澄、明智光秀、滝川一益、丹羽長秀、蜂屋頼隆らの部隊や、近江(滋賀県)、若狭(福井県南部から敦賀市を除いた地域)、五畿(山城国・摂津国・河内国・大和国・和泉国)の勢力も加わった。

織田軍は11日と12日の2日にわたって大坂へ攻め入り、周辺の麦苗を一網打尽に薙ぎ倒した。

13日に信長は越中(富山県)の神保長住(越中の守護代)を二条殿に招き、佐々長穐と武井夕庵に対面が遅れた(または連絡が遅くなった)理由※を述べさせた。

※(信長は前月に病を患って療養しており、神保との対面が先延ばしになっていたと思われる)

信長は長住に詫びとして織物100反と金100、阿波(しじら)の布を贈った。このとき、信長は長尾輝虎(上杉謙信)が他界したことを知り、佐々長穐を長住の護衛につけ、姉小路頼綱(飛騨国主)に命じて長住を飛騨(岐阜県北部)から越中へ入国させた。

5月16日、明智光秀、滝川一益、丹羽長秀が丹波(京都府中部、兵庫県北東部、大阪府北部)に向かい、荒木氏綱の居城である園部城(京都府南丹市園部町)を包囲した。

明智・滝川・庭の部隊は城の用水路を塞いで攻め入り、水路を絶たれて干上がった荒木は降伏した。園部城には明智光秀の軍勢が置かれ、ほかの者は6月1日に京都へ帰還した。

高倉山の戦い

信長公記・11巻その2 「安土城の相撲大会」
画像:毛利輝元の肖像(毛利博物館)

1578年5月の下旬または6月の初旬(天正6年4月の下旬または4月の中旬)、安芸(広島県西部)から毛利輝元、吉川元春、小早川隆景、宇喜多忠家ら中国地方の軍勢が攻め寄せてきたという報告が信長に届いた。

中国勢は備前(岡山県東南部、香川県小豆郡・直島諸島、兵庫県赤穂市福浦)・美作(岡山県東北部)・播磨(兵庫県南西部)の国堺に位置する山中幸盛の居城・上月城(兵庫県佐用郡佐用町)を包囲した。

敵の包囲に対し、羽柴秀吉と荒木村重が部隊を率いて出撃。敵軍と近距離にある高倉山(兵庫県佐用郡)に陣を構えて交戦の姿勢をとった。しかし、上月城は高倉山を下ったあとに谷を越え、さらに佐用川(熊見川)を渡った先であり、救援に向かうには間に合わなかった。

一方、信長は5月28日に京都の二条殿を出て安土城へ帰還し、6月2日に再び京都へ入った。そして、「6月6日(天正6年5月1日)に播磨へ進軍し、中国勢と一戦を交えて勝利する」と自身の出陣を宣言した。

ところが、佐久間信盛、滝川一益、蜂屋頼隆、丹羽長秀、明智光秀ら家臣が猛反対した。

彼らは、「中国勢は難所である上月城を占拠し、さらに砦を築いて堅く守備しています。まずは私たちが出撃して様子を見てからにしてください」と申し述べたのだ。

6月4日、丹羽長秀、明智光秀、滝川一益らが播磨に進軍し、6日には織田信忠、織田信包、織田信雄、織田信孝、佐久間信盛、細川藤孝らが尾張・美濃・伊勢の勢力を率いて進軍した。

途中、信忠らは郡山(大阪府茨木市)で野営して翌日に播磨へ入り、11日に明石(兵庫県明石市)の近くにある大窪(加古川市)に陣を構え、先鋒隊は敵軍の神吉城(加古川市)、志方城(志方町)、高砂城(高砂市)、これら加古川の周辺に部隊を展開した。

畿内の大洪水

信長公記・11巻その2 「安土城の相撲大会」
画像:明治7年~8年の四条大橋(京都府立図書館)

6月18日に信長も播磨に向けて進軍する予定だったが、畿内(山城国・摂津国・河内国・大和国・和泉国)では16日の巳の刻あたり(午前10時くらい)から強い雨が降り注ぎ、18日の午刻(昼)まで勢い変わらず降り続いた。

その結果、各所で洪水が発生し、桂川・白川・賀茂川(いずれも京都市を流れる川)が氾濫して京都の道が水没してしまった。17日と18日には、この3つの川が合流して舟橋(上京区北舟橋)を壊滅させ、多くの死者を出した。

また、村井貞勝が新たに建築した四条大橋(四条通の橋)も押し流されてしまった。多大な被害を被った大洪水だったが、これまで信長は一度決めたことは苦難に阻まれようとも決行してきたため、今回も18日に出発すると家臣らは思っていた。

そうした前提のもと、槙島(京都府宇治市)・淀(京都市伏見区)・鳥羽(三重県鳥羽市)の者らは数百隻の舟を用意し、油小路(京都市下京区)まで信長を迎えに行った。

嵐も恐れぬ部下たちの行いに信長は感銘を受けたが、さすがの大洪水では無理難題であり、出発を延期するしかなかった。29日、竹中半兵衛が戦況報告に信長のもとを訪れた。

それは、八幡山(兵庫県神崎郡)の城主が寝返って味方になったという報告であり、吉報を喜んだ信長は褒美として羽柴秀吉に金100枚、半兵衛に銀100両を与えた。

7月2日、信長は洪水による安土の被害状況を知るために京都を出発した。信長は、わずかな小姓衆だけを引き連れて松本(滋賀県大津市)から船で湖を渡って矢橋(滋賀県草津市)に入った。

7月14日には安土を出発し、矢橋から松本まで船で移動して再び京都に入った。18日は祇園祭(平安時代に疫病・災厄の除去を祈った祇園御霊会を始まりとする八坂神社の例祭)であった。

信長も見物したが、護衛の馬廻や小姓らには弓・槍・太刀などの装備を禁止し、軽装でお供するよう指示していた。見物を終えた信長は、小姓10人ばかりを引き連れて鷹狩に出かけた。なお、この日は小雨が降っていた。

さらに、この日は近衛前久に普賢寺(京都府京田辺市普賢寺)1500石の知行(領土の支配権を与えること)を行った。(1500石の石高がある普賢寺という地域を近衛前久に与えたということ)

20日、播磨から羽柴秀吉が京都に参上し、播磨での戦術について信長に指示を求めた。

すると信長は、「効果的な戦略を持たずに布陣しても意味がない。陣払い(今いる陣地から移動する)し、神吉城と志方城(いずれも兵庫県加古川市)に攻め入り、別所長治が立て籠もる三木城(兵庫県三木市)を包囲しろ」と指示を下した。

これにより神吉城への出撃が決定し、戦況の監視は大津伝十郎が任命され、大塚又一郎、水野九蔵、長谷川竹秀一、菅屋長頼、矢部家定、祝弥三郎、万見仙千代らが交代で監視を補佐した。

信長は25日に京都を出発し、帰還するために安土城へ向かった。

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信長公記・10巻その4 「播磨攻め」 https://rekishi-hack.com/shincho_10_4/ Mon, 28 Oct 2019 01:20:10 +0000 https://rekishi-hack.com/?p=2257 信長公記・10巻その4 「播磨攻め」

信長公記・10巻その4 「播磨攻め」
画像:豊臣秀吉の肖像(中村公園プラザ秀吉清正記念館)

播磨攻め

1577年11月21日(天正5年10月12日)、信忠は京都に入って妙覚寺(当時は京都市中京区二条衣棚。現在は上京区)に泊まった。

そして、内裏(京都御所)へ向かい、松永久秀の一件(信貴山城の戦い)を速やかに解決した褒美として、信忠は朝廷から院宣を受けて三位中将の位を賜った。

信忠は三条実綱に同席してもらい、返礼として朝廷へ金30枚を献上した。なお、実綱にも御礼の品を贈った。24日、信忠は安土城に帰還して信長へ松永久秀の一件を報告し、26日に岐阜城へ帰還した。

12月2日、羽柴秀吉の軍勢が播磨(兵庫県西南部)に向け出発した。播磨に入った羽柴軍は夜間に国中を駆け回って人質を取り固める(地元の武将や豪族らに人質を差し出させる)※ことに成功した。

※(人質は服従の証であり、謀反を起こしたり裏切った場合の保険)

そして7日、秀吉は信長へ「12月19日までには播磨の平定が完了する」と見通しを報告した。その働きに感心した信長は帰還を許したが、秀吉は「褒められるほど働いていない」と帰還を辞退※し、但馬(兵庫県北部)に進軍して岩洲城(兵庫県朝来市岩津)を落とした。

※(過去に秀吉は無許可で部隊を離脱して帰還したことがあり、帰還を辞退したのは、その償いであったと考えられる)

さらに秀吉は太田垣氏が立て籠もっている竹田城(兵庫県朝来市和田山町)に攻め入り、城内から敵を退却させた。
竹田城に改修を加え、弟の木下秀長(羽柴秀長)を城主として入れた。

一方、信長は12月22日に京都の二条殿(二条晴良の屋敷跡に建てた信長の新しい屋敷。京都市中京区両替町通御池上る東側))に入った。

鷹が帰る

信長公記・10巻その4 「播磨攻め」

信長は鷹狩を主催することを決定し、12月27日に内裏(宮中。京都御所)へ挨拶に訪れた。

前方に弓隊を100人ほど従え、このとき弓隊が持っていた弓空穂(矢を入れる筒)は信長が与えたものだった。弓隊の後ろには鷹14羽を携えた家老衆が歩き、信長も鷹を携えつつ、その前後には小姓衆と馬廻を従えていた。

小姓や馬廻は美しく着飾っており、京都の見物人は織田の行列の美しさに目を奪われていた。信長は日華門(京都御所の門の一つ)から内裏へ入り、弓隊には朝廷から御折(折箱)が贈られた。

信長は鷹正親町天皇に見せたあと、達智門(京都御所の門の一つ)から内裏の外に出て、鷹狩を行うために東山(京都市東山区)へ向かった。しかし、東山に向かう途中、急に大雪が降ってきた。

雪に驚いた鷹は信長の腕から飛び立ってしまい、大和(奈良県)の方角へ消えていった。とても大切にしていた鷹だったため、信長は家臣らに鷹の行方を探させた。

すると、大和の越智玄蕃が鷹を保護して信長のもとへ持ってきた。信長は喜び、玄蕃に褒美として服と駁毛の馬を与えた。さらに、信長は「ほかに望みはあるか?」と尋ねた。

玄蕃は、没収された領土を返してほしいと言い、これを信長は認め、家臣に伝えて領土を返還させた。鷹を見つけて届け出たことにより、玄蕃は言葉では表せないほどの加護を受けたのであった。

羽柴秀吉

信長公記・10巻その4 「播磨攻め」
画像:黒田官兵衛の銅像(中津城)

1578年1月5日(天正5年11月27日)、羽柴秀吉は熊見川(兵庫県赤穂市)を越えて上月城(兵庫県佐用郡佐用町)に攻め入り、城下や近辺を焼き払った。

さらに、秀吉は黒田孝高(のちの黒田官兵衛)と竹中半兵衛を福原城(佐用町)へ向かわせて攻撃した。しかし、宇喜多直家の軍勢が敵の援軍に駆け付け、この報告を受けた秀吉は福原城に向かって宇喜多の軍勢と戦った。

敵兵を追い崩した秀吉は上月城に戻り、再び城を包囲した。そして7日目、一人の城兵が上月城の城主である赤松政範の首を持って城外へ出てきたのである。

城兵は降伏を求めたが、信長の指示によって美作国(岡山県東北部)の国境と備前国(岡山県東南部、香川県小豆郡・直島諸島、兵庫県赤穂市の一部)で磔の刑に処された。

上月城には山中鹿之介(山中幸盛)が入城し、秀吉は福原城を落とし、250を超える敵兵を討ち取った。過去の過ち※を償うために秀吉は、粉骨して播磨の制圧に尽力したのであった。

※(過去に秀吉は無許可で部隊を離脱して帰還したことがあった)

一方、信長が京都で政務を監査したのち、1578年1月10日(天正5年12月3日)に安土城へ帰還した。

吉良の鷹狩

1月17日、信長は吉良(愛知県西尾市吉良町)で鷹狩を行うために安土城を出発した。なお、信長は出発前に、秀吉への褒美として乙御前釜(茶道の道具)を与えることを決め、秀吉が帰還したら釜を渡すように家臣へ指示した。

17日は丹羽長秀の居城・佐和山城(滋賀県彦根市)に泊まり、翌日は垂井(岐阜県不破郡垂井町)に入った。19日には美濃(岐阜県南部)に入り、20日まで滞在した。

21日は雨が降ったが清洲(愛知県清須市)まで進み、22日に吉良で鷹狩を行った。雁(水鳥の総称)や鶴など多くの獲物を狩り、吉良を出発して26日に美濃を経由して安土城へ向かった。

ちなみに、信長は安土城に帰還する途中、怠けた兵を斬り殺している。28日、信長は安土城へ帰還した。

信忠への贈り物

2月4日、織田信忠が安土城を訪れ、丹羽長秀の屋敷に泊まった。信長は寺田善右衛門を向かわせ、信忠に名物の茶道具を贈った。なお、信長から信忠に送られた品々は次のとおりである。

初花肩衝、松花茶壷、竹子花入、雁絵、くさり(釜を吊るす道具)、藤波釜、道三茶碗(曲直瀬道三が所有していた茶碗)、内赤盆

さらに、5日には松井友閑らが珠徳茶杓、大黒庵の瓢箪炭入、 古市澄胤の高麗箸を贈った。

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信長公記・10巻その2「二条殿の完成」 https://rekishi-hack.com/shincho_10_2/ Fri, 25 Oct 2019 04:50:59 +0000 https://rekishi-hack.com/?p=2246 信長公記・10巻その2「二条殿の完成」

信長公記・10巻その2「二条殿の完成」
画像:京都御所の今出川通りの築地(石垣)

内裏の築地造営

京都では紀伊(和歌山県)での一戦(雑賀衆との戦い)について様々な情報が飛び交っていた。

そこで、京都在中(織田政権下の京都所司代)の村井貞勝は、紀伊征伐の先勝祈願と内裏(京都御所。皇居)の修復完成(1574年4月)の祝賀をかねて、内裏の築地(石垣)の造営を行うことを町人に呼び掛けた。

町人は賛同し、村井貞勝が警備する中で築地の造営が開始された。そして当番(グループ)を決め、1577年3月31日(天正5年3月12日)から作業が進められた。

現場(区画)ごとに舞台を設置し、舞台には花車や飾り品を施した稚児(乳児)や若衆(少年または青年)が乗り、美しさ・華やかさを競い合った。笛や太鼓で囃し立て、町人たちは時おり囃しの音に合わせて踊りながら作業に取り組んだ。

すっかり季節は春であり、身分の低いものも位の高い者も手に桜を持って見物に訪れ、舞台に施されている燻香(芳香)や桜の香りが造園中の築地の周り漂っていた。

この光景を見た宮中(皇居)の人々は喜び、思い思いに詩歌を詠みながら一時の風流に思いを馳せていた。そして、築地の造営は短期間で完成したのであった。

雑賀衆の降伏

一方、紀伊では、織田軍の堀秀政の部隊が雑賀川(和歌川。和歌山市)を渡って敵に攻め入ろうとしたが、馬や兵らは川の中で足をとられて前進できず、川を渡り切った者も湿地で足元がすくわれ、身動きがとれず困難を極めた。

そこへ敵(雑賀二組。雑賀荘と十ヶ郷の勢力)の鉄砲隊が二列(25人ずつ)に並んで頭上から銃弾を浴びせてきた。さらに、弓矢隊の矢も降り注ぎ、織田の部隊は甚大な損害を被って退却した。

その後、各所で野戦が行われたが膠着状態が続き、雑賀の一帯は亡国のように荒れ果てていた。4月3日、信長は「条件を受け入れて降伏し、忠節を誓うなら放免する」と雑賀二組に提案した。

つまり、この条件とは、石山本願寺攻めに協力することを誓えというものだった。

雑賀二組の鈴木孫一(雑賀孫一。のちの鈴木重秀で雑賀衆の鉄砲隊長として有名)、粟村三郎大夫、土橋平次、岡崎三郎大夫、宮本兵大夫、松田源三大夫、島本左衛門大夫の7名は、連署した誓紙を差し出して降伏した。

信長公記・10巻その2「二条殿の完成」
画像:佐野砦跡(大阪府泉佐野市旭町。現在は第三小学校)

4月9日、信長は雑賀から香庄(大阪府岸和田市)まで兵を引き上げたが、佐野郷(大阪府泉佐野市)に砦(佐野砦)を築くよう命じ、この地に明智光秀、佐久間信盛、羽柴秀吉、丹羽長秀、荒木村重らを残した。

また、根来衆の杉之坊照算と織田信張を佐野砦の守備として任命した。11日に若江(東大阪市の旧名)に入った信長は、ここで名物の品々を収集した。品目は次のとおりである。

  • 天王寺屋の了雲から「貨狄の花入」を召し上げ
  • 堺の商人である今井宗久が「開山の蓋置」「松島の茶壺」を献上
  •  今井宗久から「二銘の茶杓」「紹鴎茄子の茶入」を召し上げ

それぞれに、褒美として金銀が与えられた。信長は4月12日に八幡(京都府八幡市)で一泊し、13日に京都へ入って妙覚寺(当時は京都市中京区二条衣棚。現在は上京区)に泊まった。

そして、15日に安土山へ帰還し、しばらくして7月18日には奥州(東北地方南部)の伊達輝宗から鷹が進上された。

信長の新屋敷

信長の新屋敷(二条殿。二条晴良の屋敷跡。京都市中京区両替町通御池上る東側)の建築が1576年5月(天正4年4月)に始まったが、新屋敷が完成したとの報告を受けて7月21日に信長は入居した。

近衛信基の元服

信長公記・10巻その2「二条殿の完成」
画像:二条殿跡

近衛前久(官位・従一位の公家。近衛家17代当主)が信長のもとを訪れ、息子の元服を二条殿(信長の屋敷)で行いたいと申し出てきた。しかし、公家の息子の元服は内裏(京都御所。皇居)で行うのが通例だった。

そこで信長は「通例に従って内裏で元服するのが妥当である」と前久に進言して断ったが、それでも前久から強い申し出があったため、信長は承諾した。

そして、1577年7月27日(天正5年7月12日)に二条殿で前久の息子の元服が行われ、信長は前久の息子の御髪(みぐし。首や頭の敬称)を整え、加冠(冠をかぶせる儀式。信長が冠をかぶせた)を行い、武具など一式が揃えられた。

摂家・清華家(いずれも上位の公家)をはじめ、近国の大名らが臨席するなかで無事に元服は終わった。なお、元服の際、前久の息子は信長から一字を賜り、信基へ改名した。

祝儀として近衛信基には、御服(天皇や上皇など貴人の衣服を表す敬称)が10枚、長光の腰太刀、銭100貫文※、金50枚が贈られた。

※(安土桃山時代という時代背景をもとに1貫文を現代の価値に換算すると8万~12万円前後。100貫文は、およそ1,000万円。ちなみに、貫の価値が低い時期では1貫文=現代の価値で5万円前後)

その後、信長は京都で政務を監査したのち、28日に京都を出発して山岡景隆の瀬田城(滋賀県大津市)で一泊し、29日に安土城へ帰還した。

北国への進軍

9月19日、信長は柴田勝家に軍を預けて北国(東北)へ向かわせた。

この軍勢は羽柴秀吉、滝川一益、前田利家、丹羽長秀、佐々成政、金森長近、氏家直通、斎藤新五、稲葉一鉄、安藤守就、不破光治、原長頼、若狭衆(福井県南部から敦賀市を除いた地域の勢力)の部隊で編成された。

まず、織田軍は加賀(石川県南部)に攻め入り、手取川(石川県の主に白山市を流れて日本海へ注いでいる一級河川)を超え、本折村、安宅村、小松村(いずれも石川県小松市)、富樫(加賀市)を焼き払った。

しかし、羽柴秀吉は承諾を得ずに軍を離れ、居城である長浜城(滋賀県長浜市)へ引き返してしまった。報告を受けた信長は激高し、突然の出来事に武将らは戸惑っていた。

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信長公記・10巻その1 「紀州征伐」 https://rekishi-hack.com/shincho_10_1/ Thu, 24 Oct 2019 03:37:38 +0000 https://rekishi-hack.com/?p=2241 信長公記・10巻その1 「紀州征伐」

信長公記・10巻その1 「紀州征伐」
画像: 雑賀衆と織田信長軍の攻防戦(紀伊国・名所図)

まえがき

吉良(愛知県西尾市)で鷹狩を終えた信長は1577年1月20日(天正5年1月2日)に安土城へ帰還した。

2月1日には再び京都へ入って妙覚寺(当時は京都市中京区二条衣棚。現在は上京区)に滞在した。信長のもとへ別所長治、浦上宗景、若狭(福井県南西部)の武田氏や隣国の武将などが挨拶に訪れ、信長は京都で政務を行ってから12日に安土城へ帰還した。

紀州征伐

1577年2月19日(天正5年2月2日)、紀州雑賀(和歌山市雑賀町)の三緘衆(雑賀三組)※と根来衆(根来寺の僧兵たち)の杉之坊照算が信長へ内通(服従。スパイ)することを約束した。

※(雑賀には5組の勢力があり、その中の宮郷・中郷・南郷、これら3つの村を縄張りとする三組が三緘衆。三緘衆が信長に寝返ったことで、残り二組(雑賀荘と十ヶ郷)が信長の敵対勢力となった)

信長は直ちに出撃を決め、3月2日に紀伊(和歌山県と三重県南部)に進軍することを諸国の家臣らに伝えた。

当初の予定では2月25日に京都を出発する計画だったが、強い雨で計画が変更となり、京都(妙覚寺)に入ったのは26日だった。

息子の信忠は尾張(愛知県西部)・美濃(岐阜県南部)の兵を率いて26日に岐阜城(家督を継いで信忠が城主。信長は安土城へ転居)を出発し、柏原(滋賀県米原市)で野営した。

柏原を出た信忠は27日に蜂屋頼隆の肥田城(滋賀県彦根市)に泊まり、28日に守山(滋賀県守山市)へ入った。

この日は伊勢(三重県北中部、愛知県弥富市の一部、愛知県愛西市の一部、岐阜県海津市の一部)からも織田信孝、織田信雄、織田信包らが進軍してきており、街道沿いの瀬田・松本(いずれも滋賀県大津市)には尾張・美濃・近江(滋賀県)・伊勢から集まった織田の大軍が野営していた。

また、畿内(山城国・摂津国・河内国・大和国・和泉国)の兵や、越前(福井県嶺北地方と敦賀市)・若狭(福井県南部から敦賀市を除いた部分)・丹後(京都府北部)・丹波(京都府中部、兵庫県北東部、大阪府北部)・播磨(兵庫県南西部)の兵は京都に集まり、信長の出撃命令を待っていた。

そして、3月2日、信長は進軍を下し、京都を出発した。淀川(琵琶湖から流れる河で瀬田川・宇治川・淀川と名前を変えながら最終的に大阪湾へ流れ込んでいる)を越えて八幡(京都府八幡市)で野営した。

信長公記・10巻その1 「紀州征伐」
画像:石清水八幡宮(京都府八幡市)

3日は雨が強く降っていたので八幡に留まったが、近江から進軍していた信忠の部隊や伊勢から向かっていた織田の部隊は雨にも関わらず先を急ぎ、槙島(京都府宇治市)の宇治川を越えて八幡に到着し、信長と合流を果たした。

4日、八幡を出た織田軍は若江(東大阪市の旧名)に入り、5日に和泉(大阪府西南部)の香庄(岸和田市)で陣を構えたが、和泉の一揆衆が貝塚(大阪府貝塚市)の海近くに砦を築いて立て籠もっていた。

6日、織田軍は貝塚の砦に攻めかかったが一揆衆は砦を捨てて夜中に船で紀伊方面へ逃亡した。織田軍は香庄に引き返し、信長のもとへ杉之坊照算が御礼の挨拶に訪れ、照算は雑賀の一揆衆の殲滅に協力することを誓った。

7日、信長は佐野の郷(大阪府泉佐野市)に陣を移し、11日には志立(大阪府泉南市)に入り、ここで部隊を海沿いを進軍する部隊と山から進軍する部隊にわけて紀伊を目指した。

山から進軍している部隊(=山の部隊)は杉之坊照算と三緘衆が道案内を務め、羽柴秀吉、佐久間信盛、荒木村重、堀秀政、別所長治、別所重宗ら3万人の兵力。

海沿いを進軍する部隊(=海の部隊)は明智光秀、丹羽長秀、滝川一益、筒井順慶、長岡藤孝、大和衆(奈良県の勢力)、織田信忠、織田信孝、織田信包、織田信雄ら3万人の兵力であった。

山の部隊は雑賀二組(雑賀荘と十ヶ郷の勢力)に攻め入ったが、敵は雑賀川(和歌川)の左岸(和歌山市小雑賀)に柵を築いて防戦の姿勢をとった。

3月13日、防御線を破るために山の部隊は堀秀政が兵を率いて川の中を突き進み川岸の柵まで迫ったが、思いのほか防柵が高く、岸へ上がることができずに立ち止まった。すると敵は銃弾を放ち、堀の部隊は多くの戦死者を出して退くしかなかった。

山の部隊は川を境にして防柵の対岸で攻囲の姿勢をとり、先鋒隊の通路を守るために氏家直通、稲葉一鉄、飯沼勘平が紀の川に陣を構えた。

信長公記・10巻その1 「紀州征伐」
画像:紀の川(和歌山県紀の川市)

海の部隊は明智光秀、丹羽長秀、滝川一益、細川藤孝、筒井順慶、大和衆が淡輪(大阪府泉南郡岬町)で3つの部隊にわかれ、明智光秀と細川藤孝の部隊が一本道を進み、残り2部隊は山中を進軍した。

孝子峠(岬町と和歌山市の県境にある峠)を超えた3部隊は敵の防衛線に接し、雑賀二組と戦闘が開始された。

後方から進軍してきた織田信雄、織田信忠、織田信孝、織田信包の部隊も加わり、細川藤孝の家臣・下津権内が一番槍の武功を挙げるなど、凄まじい勢いで攻め立てた。

ちなみに下津権内は、過去に岩成友通を討ち取るという武功を挙げた人物である。戦闘は織田軍の勝利で終わり、防御線を焼き払うと、そのまま南下して中野城(和歌山市中野)を包囲した。

1577年3月17日(天正5年2月28日)、一方の信長は淡輪まで進軍して陣を構え、これを知った中野城の敵兵は降伏し、ここに信忠が陣を構えた。

信長は19日に淡輪を出発し、下津権内を呼び出して褒美の言葉を与えた。そのあと、道中で野営を構え、信長は馬で駆け回りながら周辺の地形を視察した。

20日、信長は、明智、滝川、丹羽、細川、蜂屋、筒井、若狭衆らを鈴木孫一(雑賀孫一。のちの鈴木重秀で雑賀衆の鉄砲隊長として有名)の屋敷に向かわせ、攻撃した。

この間に信長は、速やかに移動できる位置として、山と海の中間にある鳥取郷(大阪府阪南市)の若宮八幡宮で陣を構えた。

そして、不破光治、堀秀政、水野大膳、丸毛長照、武藤舜秀、山岡景隆、丹羽氏勝、中条将監、生駒市左衛門、生駒三吉、福富秀勝、福田三河、牧村長兵衛らを根来(和歌山県岩出市)に向かわせ、小雑賀(歌山市小雑賀)と紀の川に続く峠に陣を構えさせた。

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信長公記・11巻その1 「正月の茶会と内裏の節会」 https://rekishi-hack.com/shincho_11_1/ Wed, 23 Oct 2019 00:54:29 +0000 https://rekishi-hack.com/?p=2262 信長公記・11巻その1 「正月の茶会と内裏の節会」

信長公記・11巻その1 「正月の茶会と内裏の節会」
画像:茶碗と茶筅(©D-matchastore)

まえがき

1578年2月7日(天正6年1月1日)、安土城には尾張、畿内、美濃、伊勢、近江、若狭、越前、ほかにも隣国から家臣や旗本の主が集まり、信長に年賀の挨拶を述べた。

尾張・・・愛知県西部
畿内・・・山城国・摂津国・河内国・大和国・和泉国
美濃・・・岐阜県南部
伊勢・・・三重県の北中部・愛知県弥富市の一部・愛知県愛西市の一部・岐阜県海津市の一部
近江・・・滋賀県
若狭・・・福井県南部から敦賀市を除いた地域
越前・・・福井県嶺北地方と敦賀市・岐阜県北西部

正月の茶会

1578年2月7日(天正6年1月1日)、信長は、織田信忠、羽柴秀吉、明智光秀、丹羽長秀、滝川一益、林秀貞、細川藤孝、武井夕庵、荒木村重、市橋長利、長谷川宗仁、長谷川与次に茶を振る舞った。

茶室は右勝手※の六畳・四尺(120センチメートル)縁の座敷で、床の間には水辺の絵を飾り、座敷の東に松島茶壷、西側には三日月茶壷と万歳大海壺、珠光茶碗と四方盆(正方形のお盆)、帰花の水指、囲炉裏に花入(花を挿す筒)をくさりで吊るし、姥口茶釜を置いた。

※(点前座に座る亭主(茶を点てる人)の右側に客人が座る席構えのこと)

茶頭(茶会の仕切り)は松井友閑が務め、茶会が終わったあとは新たに織田家へ出仕(仕官)した者に信長が三献の盃(三三九度)を行い、御酌(酒を注ぐ)は矢部家定、大塚又一、大津伝十郎、青山虎が務めた。

信長公記・11巻その1 「正月の茶会と内裏の節会」
画像:人物叢書・松井友閑(日本歴史学会)

信長は出仕した者らに天主(天守)を見物させた。天主の内観は狩野永徳が描いた障壁画(濃絵※)が美しく、名物の品々が並べられ、言葉では表せない威光を放っていた。

※濃絵とは、金碧濃彩画(金箔を雲や地面に張り敷き、立派な原色を厚く塗ったもの)

さらに信長は、これらの者に雑煮と唐物(中国)の菓子を天主で振る舞った。そして、2月10日には信長が1578年2月4日(天正5年12月28日)に信忠へ贈った名物の茶道具の披露会が万見重元(仙千代)の屋敷で催された。

参席したのは松井友閑、滝川一益、羽柴秀吉武井夕庵、丹羽長秀、林秀貞、長谷川宗仁、市橋長利、長谷川与次で、このとき市橋長利は信長から芙蓉の絵を頂戴し、長利は感無量であった。

<補足>

信長の強い希望により、安土城の障壁画の7割以上は狩野永徳が描いた。

一階の西にある4畳間(来客や家臣と対面する座敷)と12畳の間、二階の南にある4畳間や12畳の間には唐(中国)の儒者や西王母、呂洞賓などの濃絵。

三階は竹や松に龍虎の濃絵、鳳凰などが描かれていた。五階には釈迦や餓鬼といった仏教の濃絵、六階は古代中国の聖人である三皇五帝や商山四皓が描かれていた。

なお、復元された天主の壁画と信長公記に記されている壁画は異なっている。復元された壁画は、五階には釈迦説法図と双龍争珠図、波濤の飛龍図。

六階は老子出関図と軒轅問道図、 尚父遇文王図と尚父遇文王図、周公握髪図と杏壇図、孔子観欹器図である。

節会

信長公記・11巻その1 「正月の茶会と内裏の節会」
画像:お節料理

当時、内裏(京都御所。皇居)の節会(せちえ)※は長らく行われておらず、もはや京都には節会の儀を取り行える者がいない有様となっていた。

※(節会とは、節日(季節の節目)に天皇が臣下に酒や料理を賜る儀式で、内裏で節日に行われた宴会。祝事を行い、祝いの御前が用意され、このときの御前に由来して「お節料理」と呼ばれるようになった)

しかし、信長が月卿雲客(大臣・大中小納言・参議または三位以上の公家)に知行(所領の支配権を与える)を加え、内裏の修復や築地の造営など朝廷の威光が蘇ってからは再び節会も取り行われるようになったのである。

節会には臣下(公家や大名)が集まって根引き松(根が付いたままの飾り松)を飾り、1月1日の辰の刻(午前8時の前後2時間)に神楽歌が奏でられ、多様な儀式を行って格式ある祭事が行われた。

このように長らく途絶えていた内裏の節会が蘇り、信長の時代に生まれた京都の人々は「誠にめでたいこと」と喜びに満ちていた。そして、1578年2月16日(天正6年1月10日)に信長は、鷹狩で捕まえた鶴を正親町天皇に献上した。

また、信長は、この日に近衛前久(近衛家17代目の当主。官位は従一位の公家)へも鶴を進上し、翌日に前久が安土城に御礼に訪れると、松井友閑の屋敷に前久を宿泊させ、対面した。18日の明け方に前久は安土城を出た。

信長は清洲(愛知県清須市)で鷹狩を行うため、19日に安土城を出発し、柏原(滋賀県米原市)に入った。翌日、美濃まで進んで2日ほど滞在したのち、22日に清洲へ入った。

さらに、18日には吉良(愛知県西尾市)でも鷹狩を行い、多くの雁(水鳥)や鶴など捕まえた。28日に清洲へ戻って翌日には美濃へ入り、3月3日に安土城へ帰還した。

福田与一の屋敷の火事

(03の画像を添付)

3月7日、織田の家臣で弓衆の福田与一の屋敷が火事になった。信長が調査を進めると、与一は妻と子を美濃に置いたまま安土(滋賀県近江八幡市)に単身赴任していることが分かった。

つまり、軍の戦力であり信長の護衛でもある者が家族を安土に呼び寄せていないということは腰を据えていないという意味でもあり、また、妻子が居れば留守の出火は防げたはずで、これを知った信長は激怒して与一に処罰を下した。

このような者が他にもいないか調査するために信長は、配下の者が安土で家族と暮らしているか菅屋長頼に調べさせ、台帳に記録させた。すると、与一の他にも60人の弓衆と馬廻60人が妻子と離れて暮らしていることが判明した。

信長は息子の信忠を尾張に向かわせ、その者たちの家族が住む家を焼き払わせた。結果、家を焼き払われた120名の家族たちは尾張を離れ、安土に移り住むしかなくなった。

与一と120名には罰として安土城の南にある入江(江の内)に新しい道を造らせ、全員を許した。

磯野員昌の逃亡

3月11日、磯野員昌(元は浅井長政の家臣だが姉川の戦いで織田に降伏して信長の家臣になった)が指示に背き、処罰を恐れ、素早く逃げて行方不明になった。

信長は磯野の所領である高島(滋賀県高島市)を織田信澄(織田信勝の息子で員昌の養子になっていた)に与えた。また、17日には吉野山(奈良県吉野郡吉野町)で蟄居(謹慎)していた磯貝新右衛門を吉野の住人が殺害し、新右衛門の首を信長に持ってきた。

この者に信長は黄金を褒美として与えた。信長は恨みを抱いた相手には必ず報いを受けさせた。

一方、3月31日に羽柴秀吉は中国攻め(毛利攻め)に備えて播磨(兵庫県南西部)へ攻め入り、別所長治の配下である糟屋内膳の加古川城(兵庫県加古川市加古川町)に陣を構え、書写山(兵庫県姫路市)に砦を築いて布陣した。

しかし、突如として別所長治が毛利輝元に寝返ってしまい、三木城(兵庫県三木市)に立て籠もったのである。

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11月は神々が出雲大社で「縁結び」について話し合うって本当? https://rekishi-hack.com/marriage/ Mon, 21 Oct 2019 01:07:53 +0000 https://rekishi-hack.com/?p=3151 11月は神々が出雲大社で「縁結び」について話し合うって本当?

11月は神々が出雲大社で「縁結び」について話し合うって本当?
画像:出雲大社神楽殿の大注連縄

縁結びで有名な出雲大社には国造りの神として知られる「大国主命(オオクニヌシノミコト)」が祀られていますが、オオクニヌシ様が1年で最も忙しいのが11月。

なぜ11月は大忙しなのか。それは、全国各地に散らばっている800万の神様(八百万神-ヤオロズノカミ-)が出雲大社へ一堂に集まるからです。

その神様たちをオオクニヌシ様が出迎えたり見送ったりするわけで、知る人ぞ知る出雲大社のビッグイベントなんですね。

この時期の出雲大社では様々な御神事が開かれ、なかでも「神迎祭」「神在祭」「神等去出祭」は重要な神事となっています。

出雲の神在月

11月は神々が出雲大社で「縁結び」について話し合うって本当?

さて、旧暦10月のことを「神無月(かんなづき)」と言いますが、読んで字のごとく、全国の神様(八百万神)が出雲に集まるから「神様」が「居ない」「月」という意味。

対して出雲では、八百万神が集まってくるので旧暦10月を「神在月(かみありつき)」と呼んでいます。つまり、旧暦10月は、出雲だけに神様がいるというわけです。

旧暦10月は新暦の11月なので、この時期に出雲大社では様々な御神事が行われています。

八百万神を迎える「神迎祭」

11月は神々が出雲大社で「縁結び」について話し合うって本当?
画像:稲佐の浜の弁天島

全国各地から集まってくる800万の神様たち(八百万神)は「稲佐の浜」に降り立って出雲に上陸すると言われており、それに伴って稲佐の浜では「神迎神事(かみむかえしんじ)」が行われます。

稲佐の浜は天照大神(アマテラスオオミカミ)から国譲りの命を受けた建御雷神(タケミカヅチ)をオオクニヌシが出迎えた場所であり、とても神聖な海岸なんですよ。

そして、神迎神事のあと、龍蛇神(リュウジャシン)様が神様たちを先導して稲佐の浜から出雲大社へ「神迎の道」を通って向かい、「出雲大社神楽殿」に到着するんですね。

11月は神々が出雲大社で「縁結び」について話し合うって本当?

このとき、神迎の道にある民家の人たちは自宅の軒下に潮汲み箍(潮汲みに使う竹の筒)を吊るしたり注連縄(しめなわ)を飾ったりして、昔から続く風習になっているようです。

※潮汲みとは毎月1日の朝に稲佐の浜の海水を潮汲み箍に汲んで出雲大社まで持って行って参拝し、その海水を家に持ち帰り、笹の葉に海水を付けて玄関や部屋、体などにまいて清める習慣。

神迎の道を通り出雲大社に着いた八百万神(ヤオロズノカミ)を迎えるために、次は「神迎祭(かみむかえさい)」が出雲大社神楽殿で行われます。

ちなみに、今年の神迎神事と神迎祭は2019年11月6日の午後7時~。

神迎祭は全ての神様を迎える神事なので大宮司ほか全祀職によって神聖に執り行われ、神迎祭が終わると八百万神は十九社(神様たちの宿泊所)に入り、旅の疲れを癒すそうです。

神迎祭では参列者に御神酒や餅が振る舞われ、とても縁起の良いものとして喜ばれています。

神議りに礼を尽くす「神在祭」

11月は神々が出雲大社で「縁結び」について話し合うって本当?
画像:出雲大社十九社

出雲に集合した八百万神は出雲大社の西南に位置する「上の宮」で縁結びや農作物の収穫などについて7日かけて神議り(かみはかり)を行うと言われています。

古来から個々の神様は完全なる存在ではなく、それぞれの神々が力を合わせ自然界を守っていると伝えられており、その一つとして、八百万神にとって神議りは重要なイベントなんですね。

※神議り・・・神様たちが話し合うこと

そして、このとき、人と人との「ご縁」についても話し合われ、神議りで決められるそうです。

神議りが行われている期間、十九社では祀職によって「神在祭(かみありさい)」が開かれますが、歌舞や奏楽で派手に振る舞わず、家屋の建築も中断し、ただ静かに慎んで暮らすのが出雲の習わし。

11月に出雲大社の周辺地域では強い風が吹いたり稲佐の浜では海が荒れることも多いそうで、地元の人らは神在祭が行われている期間中を「お忌みさん」と呼んでいます。

なお、一般の人は御忌祭には参列できません。

また、縁結びの神議りにちなみ、出雲大社では「縁結大祭」も行われます。八足門内にて、大国主命や八百万神に向けて人々の良縁を祈る祝詞(のりと)が声高らかに奏上されるんですよ。

ただし、縁結大祭の参列を希望する場合、出雲大社へ事前に申し込みが必要。良縁を熱望している人は、ぜひ参列してみてはいかがでしょうか。

2019年の神在祭は、11月7日・11日・13日。
縁結大祭は、7日と11日です。

感謝の意を込めて「神等去出祭」

11月は神々が出雲大社で「縁結び」について話し合うって本当?
画像:大国主命の像(出雲大社)

7日が過ぎ、神議りを終えた八百万神が出雲を去るとき、出雲大社では感謝の意を込めて「神等去出祭(からさでさい)」が行われます。

拝殿の祭壇に2本の神籬と龍蛇、お餅が供えられて祝詞(のりと)を奏上したあと、神職が本殿の楼門の扉を3度叩きながら「お立ち、お立ち~」と唱えます。

この合図で八百万神は出雲大社から去るそうです。

また、7日後の神等去出祭を終えたあとも、旧暦26日に再び神等去出祭を行い、これは「八百万神が出雲の地を離れた」ということをオオクニヌシに報告するための儀式。

神議りの最終日に神々たちは佐太神社と万九千神社で直会(なおらい)するらしいんですが、オオクニヌシは参加せずに出雲大社に留まるわけですね。

そのため、あらためて神等去出祭を行って「すべての神様たちが帰られましたよー」と神職がオオクニヌシに報告するわけです。

ちなみに、直会とは神様たちの打ち上げ。オオクニヌシ様、打ち上げに参加できないのは少し切ないですね・・・。

2019年の神等去出祭は11月13日と26日、いずれも午後4時~です。

参考:出雲大社

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