細川小倉藩の陰謀説
画像:細川小倉藩の初代藩主「細川忠興」の銅像(勝竜寺城公園)
小次郎に関する記録が一切ないことについて歴史研究家の杉山光男氏は、「細川小倉藩が佐々木小次郎の存在を抹消したかった」という見解を示しており、武蔵との決闘は小次郎を殺すために仕組んだ計画だったとのこと。
細川小倉藩が小次郎の存在を隠したかった理由は、まず一つ目に、「小次郎がキリシタンだった」ことが原因。
1612年に徳川幕府がキリスト教の禁止令(禁教令)を出して以来、明治時代になっても(1873年まで)キリシタンの弾圧は続きました。
巌流島の決闘が行われたのは1612年4月13日。
禁教令が出されたのは1612年4月21日。
徳川幕府は江戸・京都・駿府など、幕府の直轄地に「教会の破壊」と「布教の禁止」を命じる禁教令を出し、各地の大名らも直ちに従ってキリシタン(キリスト教徒)の弾圧に動き出します。
まずは、藩士や家臣のなかにキリシタンがいないか徹底的に調査を行い、なかには処刑される者もいて、キリシタン探しは国を挙げての一斉捜索でした。(正式に全国に向けて発令されたのは1613年1月28日のバテレン追放令)
禁教令が発令されたのは4月21日ですが、発令される前から各地の藩には情報が届いていたはずです。当然ながら、幕府の管轄である細川小倉藩も、近いうちに禁教令が発令されることを分かっていたでしょう。
そうなると、キリシタンである佐々木小次郎は厄介な存在。しかも、藩士らに剣術を教えている立場となれば、キリスト教を広めていたなんて"よからぬ噂"の種にもなりかねません。
藩としての面目にも関わってきますし、ことが大きくなる前に小次郎の存在を抹消したかったというのが理由の一つです。
佐々木小次郎はキリシタンだったのか?
画像:防長風土注進案(山口県文書館)
幕末の長州藩が領内の記録をまとめた書物「防長風土注進案」の記述の中に、
佐々木巌流の妻の墓が寺が浴にある |
という一文があり、「佐々木巌流」とは佐々木小次郎の呼び名で、「寺が浴」の現在の地名は山口県阿武町福田下。
そして、防長風土注進案が示す"小次郎の妻の墓"は、福田下の太用寺から20分ほど歩いた山の中にあります。しかし、驚くことに、そこにあるのは小次郎の妻の墓ではなく佐々木小次郎、本人の墓なんです。
太用寺の住職によると、小次郎の妻が決闘後に巌流島へ渡り、小次郎の遺髪を故郷(小次郎の妻の)である阿武町まで持ち帰り、福田下に墓を建てたと伝わっているそうです。
その墓石には「佐々木古志らう」と彫られており、小次郎と彫られていないことに「キリシタン説」のヒントが隠されています。
なぜ小次郎と彫らずに「古志らう」と彫られたかというと、当時のキリシタンは「十字」=十字架を暗号として刻む習性があり、小次郎の墓に彫られた「古」という字は「十」と「口」で成り立つ漢字ですよね。
つまり、「古」という字を用いたのは「十字」を刻むことが目的で、キリスト教徒の墓である証を刻んだわけです。
また、小次郎の墓の付近には隠れキリシタンや宣教師の墓も数か所に建っており、それらの条件が重なることから、一部の研究家のなかで佐々木小次郎はキリシタンだった可能性が高いと考えられています。
※(隠れキリシタンとは、キリスト教徒であることを隠して密かに信仰を続けていた信者)
そして、細川藩が、わざわざ武蔵との決闘を計画してまで小次郎を抹殺したかった二つめの理由が、歴史研究家の杉山光男氏によると「キリシタンによる一揆を防ぐため」とのこと。
佐々木小次郎を抹殺した本当の理由
画像:佐々木小次郎の銅像(吉香公園)
キリシタンである佐々木小次郎を細川藩が殺したとなればキリシタンたちが一揆を起こす可能性があり、キリシタンの反発を防ぐためには「別の誰か」が「公式の場」で「自然な形」で小次郎を殺す必要があったとのこと。
その誰かが「宮本武蔵」であり、公式の場が「船島(巌流島)」、「決闘」という自然な形で小次郎を抹殺するのが「細川藩のシナリオだった」という見解を歴史研究家の杉山光男氏は示しています。
巌流島の決闘は、必然性を装い小次郎を抹殺するための暗殺計画だったのです。
また、本来、巌流島は船島という地名ですが、決闘のあと、小次郎の剣術流派である「巌流」と名づけられました。
一説によると、昔の風習で死者の祟りを鎮めるために恨みを残して死んだほうの名前を付けることがあるそうで、決闘で死んだのなら恨みを抱いて死ぬことはないはずですが、あえて小次郎の名を島につけて弔ったというのもミステリアスです。
さて今回は、佐々木小次郎の死の謎について歴史研究家の見解や文献を紹介しましたが、あくまでも"一つの説"であり、真相は定かではありません。小次郎の暗殺説、あなたは信じますか?