秀吉の出世街道は命懸け
画像:豊臣秀吉肖像画(秀吉清正記念館-中村公園文化プラザ)
秀吉の出世街道は止まらない。1572年に起きた「金ケ崎の退き口」では絶体絶命の信長を、体を張って秀吉が防ぎ、助けている。もちろん、信長に褒められる。
その2ヶ月後、浅井家と朝倉家がタッグを組んで織田家を攻めた「姉川の戦い」では、最前線で家康と協力して見事に敵を撃退する。これも功績が認められ、立場がワンランクアップする。
さらに、1573年、37歳の時には「小谷城の戦い」でも大きな功績を残している。金ヶ崎で信長をピンチに追いやった浅井長政を討ち、2年後に長浜城(滋賀県)を築城し、今浜から「長浜」へと改名した。
ちなみに秀吉は長浜と名付けるとき、信長の「長」を用いて命名したという。抜かりない気配り。あざといくらい、見え見えの気配り。ここでもO型の性格が出ている。
その7年後、秀吉は信長の命を受けて須磨国(兵庫県中西部)を統一すると、黒田官兵衛から姫路城を譲り受け、淡路国(兵庫県)統一に貢献する。
しかし、秀吉の人生を大きく変える大事件が起こる。1582年6月2日、本能寺の変で信長が明智光秀に暗殺されたのだ。秀吉は信長の仇を討つために京都と大阪の間に位置する「山崎」で光秀を討った。(中国大返しからの山崎の戦い)
信長の死後、清須会議を経て1584年に家康と小牧・長久手(愛知県)にて戦うが勝敗がつかず、家康と和解したことで実質的に天下統一を果たした。
その後、大阪城を建て、京都に聚楽第をつくり、天皇から関白という役職まで与えられ、こうして農家の息子は天下人へと昇りつめたのである。
画像:豊臣秀吉之像(有馬温泉)
農民から世話係へ、武士の見習いから武将へ、長浜城から姫路城へ住まいを移し、信長の仇を討って権力者の家康を配下につける、まるでトントン拍子で事が運んでいるように思えるが、そうではない。
いくつもの修羅場をくぐり抜け、身を粉にして信長に仕えた。信長だけでなく周りの顔色を毎日伺っては気を配り、人が嫌がる仕事を率先してこなしたという。
いくつ当てはまる?
画像:天下を獲った男 豊臣秀吉(©1993TBS)
では、あらためてO型の特徴を確認してみよう。ここまでのエピソードを参考にしながら当てはめると、いくつ秀吉の人物像に当てはまるだろうか。
●目標をしっかり持っていて努力を惜しまず一生懸命に取り組める
・・・・度が過ぎるくらい頑張っているので当てはまる
●精神力が強くて他人に頼るよりもまずは自分で何とかしてみる
・・・かなりタフ。人が嫌がる仕事も率先してやった
●自分の能力を信じていて目標に向かって突き進む自信家
・・・自信過剰だったからこそ猪突猛進できたのだろう
●向上心が高くて他人に負けることが大嫌い
・・・間違いなく負けず嫌い
●仕事熱心で率先して作業に取り組んで、要領も良い
・・・過去の実績をみても分かるように積極的
●夢や理想を求める情熱的なロマンチスト
・・・ロマンチストはさておき、夢を追い求める情熱があるのは間違いない
●人と人との繋がりを大事にして人間関係を大切にする
・・・気配りやコミュニケーション能力が群を抜いて高い
●人付き合いで好き嫌いがはっきりしている
・・・天下をとったあとに苦手な人を冷遇しているエピソードはある
●地道にコツコツと努力を重ねるタイプだけど飽き性な一面もある
・・・努力家は当てはまるが、飽き性な一面は見当たらない
●人間観察に優れていて面倒見が良いからリーダーに向いている
・・・人を注意深く観察して人脈作りに活かしている
驚くことに、ほとんどが当てはまる。それにしても、秀吉は苦労人で努力家だ。成るべくして天下人となったのか、もしくは策略が潜んでいるかはわからないが、いずれにしても出世の道のりは命懸け。
現代なら、間違いなくスーパーサラリーマン。ゼロから天下人になった男だが、たゆまぬ努力を積み重ねた末の結果であることは言うまでもないだろう。
この記事へのコメントはありません。