北条の滅亡は秀吉のシナリオだった?
画像:豊臣秀吉の像(豊國神社)
北条氏滅亡と秀吉の策謀によると、秀吉は北条氏の領土を所領することが目的で"口実をつくるために北条氏を悪者に仕立て上げた"のではないかと見解しています。
北条が上洛を拒否したのも名胡桃城の一件も秀吉の"ねつ造"で、北条氏は早い段階から秀吉に仕える意思を示していたにも関わらず、それでは北条氏の領土を奪取できないと考えた秀吉は「敵対している大名」「従わない大名」という大義名分をつくったのではないかと。
実際に史実の記録を見ると、北条氏は秀吉が天下統一を目前にした頃、和睦と対立、どちらになってもいいよう準備を整えていることが分かります。
1587年に小田原城の大普請(改築・整備)を実施し、15歳から17歳までの領民を兵として採用する計画を進行し、小田原領内の防衛を固めていました。
北条氏滅亡と秀吉の策謀には、「この翌年に氏政と氏直は秀吉に仕える意思を伝えている可能性が高い」とあり、実際の史実にも「氏親(氏政の弟)が上洛して秀吉と書見している」とあり、徹底的に敵対していたとは思えないのです。
むしろ、北条氏は低姿勢で秀吉に応じていたのではないかと。この状況において、素直に従っている相手の領土を奪うような真似をすれば秀吉に対する周囲からの不信感は大きくなるでしょう。
そのため、北条氏を討つ口実をつくって領土を奪う必要があったわけです。その結果、1590年に家康へ関東255万石を与えて江戸城に住まわせていますし、あきらかに武力による制圧を目論んでいることが推測できます。
北条氏滅亡と秀吉の策謀に書かれている見解が現実味を帯びてくれば、「北条氏は従う意思を明確にしていたのに秀吉のシナリオ・ねつ造によって攻め滅ぼされた」ということになりますね。
つまり、「なぜ従わなかったのか」という問題提起はそもそも見当違いで、「従っていた」というのが答えになります。
忍城の水攻めも秀吉のパフォーマンス?
画像:©2011映画「のぼうの城」製作委員会
小田原征伐といえばワンセットになるのが「忍城の水攻め」。史実によると忍城の攻略を秀吉から任せられた石田三成が独断で「水攻め」を強行し、落城に手間取って"三成は戦のセンスがない"というイメージを定着させた戦いです。
映画・のぼうの城でも、そのようなシーンが描かれています。ところが実際の文献では、忍城の近くに陣を構えた三成が記録した書状に、「周囲の武将たちは忍城に攻め込もうとはせず水攻めを推奨している。この状況では落城に時間がかかりそうだ・・・」といった内容が記されているのです。
ということは、忍城の水攻めは三成の独断を否定するような内容です。しかも三成が陣を構えた丸墓山から忍城を眺めたとき、城の周りは平面で平地が広がり堤防になりそうなものはありません。
さらに、忍城は周囲の平地よりも高めに位置していますし、ゼロから堤防を築くとなれば膨大な時間と労力が伴うことは容易に判断できるのです。豊臣家の五奉行を任せられていた男が、そんな基本的なことを見逃すとは思えません。
それでも水攻めを強行したとすれば、それは三成の意思ではないということ。では、大将に任命された三成のほかに決裁権があった人物となれば、秀吉ただ一人。
忍城の立地や地理を知らない秀吉が初めから水攻めを決定しており、何のために水攻めに"こだわった”のかといえば「派手なパフォーマンスで自分の力を誇示して各地の大名に権威を見せつける」ことが目的だったのではないかと。
小田原征伐と忍城の水攻めによって氏政は討伐され、息子の氏直(北条氏5代目)を高野山へ追放。今回の説は、あくまでも史実と異なる見解で不確定ですが、もし事実だとすれば秀吉の人物像にメスが入る歴史的な発見になりますね。
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