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石田三成は最後の大仕事「関ケ原の合戦」に何を求めていたのか?

秀吉の影を追った石田三成。最後の大仕事「関ケ原の合戦」に何を求めていたのか?

画像:石田三成之肖像(東京大学史料編纂)

豊臣秀吉に仕え、こき使われながらも親のように慕い忠義を尽くした武将といえば石田三成。二人の出会いとして語り継がれる「三献の茶」は、あまりにも有名なエピソードではないだろうか。

やがて秀吉が天下をとると、これまで以上に精を出して働いた。秀吉の関白就任に伴い、従五位下治部少輔に叙任され、堺町奉行に、九州攻めのあとは博多町奉行となった。

その後も島左近を召し抱えたり豊臣家の重職である五奉行に任命されたり、京都奉行の人を命じられたりして気がつけば”滋賀の坊主”は彦根市に城を構える20万石の武家にまで出世していたのだ。

そんな三成だが、彼の人生には常に”厄介者”がうろついていた。信長が亡きあとの天下を争って秀吉と小牧・長久手で戦った徳川家康である。

秀吉が天下をとったあとは豊臣家の五大老の一人となり、前田利家に並ぶ権力を保有していたので三成とは天と地の差だが、はっきり言って「気に食わない」存在だったと言える。

それは、信長の死後、歴史に名を残す出来事となって証明される。そう、関ケ原の合戦である。天下取りに動く家康に”待った”をかけるべく三成は立ち上がったのだが・・・。

そこで今回は、三成最後の”大仕事”となった関ケ原の合戦をテーマに、「なぜ三成が家康と互角の兵力を集められたのか」その経緯と、そこに至るまでの人との関わりについて見ていきたいと思う。

三成と秀吉の出会い「三献の茶」

画像:茶碗と茶筅(©D-matcha store)

「客人にお茶をだす」という風習は今に始まったことではありません。古くは奈良時代に始まり、千年以上の時を経て、現代まで受け継がれている日本古来の文化です。

「茶」は「心」を表現する「作法」と言われ、「気配り」を意味しています。お茶を用いた気配りに、豊臣秀吉と石田三成の出会いを示すエピソードがあります。

滋賀県の観音寺を訪れた秀吉が坊さんにお茶を頼んだところ、当時、寺の小僧をしていた三成が三杯のお茶を出しました。これが世に言う「三献の茶」。

喉の渇きを潤すために一杯目は茶碗いっぱいに注いだぬるいお茶を出し、二杯目は半分の量で少し熱いお茶を、三杯目は香りと安らぎを楽しんでもらうために小さな茶碗に熱いお茶を少し注いで出したそうです。

行き届いた心遣いに胸を打たれた秀吉は、すぐさま三成を自分の世話役として手厚く迎えました。

気配りとは人の心を表します。思いやりのある気遣いをすることで、目には見えない「心配り」が生まれるのです。それは、一期一会の出会いを大切にするということも同じ。

ほかの誰かと時間を共有するということに、気配りひとつ。いつも忘れずに心掛けておきたいものですね。

人との付き合いに上下関係はあっても、心配りに肩書きは関係ありません。

出典:天下人を虜にした心配り-月間朝礼より(著 舘美智子)

半士半農(半分武士で半分は農民)の子として長浜に産まれた三成は幼い頃に寺に預けられ、たまたま寺に立ち寄った秀吉に茶を出したことで気に入られ、豊臣家に仕えることなる。

農民から天下人に成った秀吉に憧れを抱き、必死で尽くしたのだろう。三献の茶は地元の長浜では有名な話で、秀吉が信長に仕えていた時代に改名した地も長浜。どこか数奇な運命を感じる。

関ケ原の戦い

画像:徳川家康肖像(国立国会図書館)

秀吉の死後、三成は家康と対立する。

1598年9月18日、秀吉が病死すると、当主が不在となった豊臣家は徐々に雲行きが怪しくなっていく。いち早く怪しい動きを見せたのが五大老の家康だった。

秀吉は生前に手に領地を譲ったり貰ったりしないこと」「豊臣家の許しなく大名や家来と縁を結ばないこと」この2つのルールを家臣に命令し、これは絶対に守らなければならなかった。

しかし、家康は秀吉の死後、すぐに決まりを破り、伊達政宗や福島正則を自分の養子として縁組する。

これを知った五奉行と家康を除く五大老は猛抗議。

すぐに縁組を解消するよう言い渡し、面倒なことになるのを避けた家康は素直に従った。これを見た三成は大満足。この一件で、豊臣家の団結力は揺るがないと胸をなでおろす。

三成の使命は「秀吉の息子である秀頼を守って豊臣家を存続させること」だった。秀吉が築き上げた豊臣政権を守ることであった。たとえ命と引き換えにしてでも・・・。

そんな矢先、三成にとってネガティブな出来事が起こる。五大老の前田利家が病死してしまうのだ。権力、発言力、部下や同僚からの信頼、どれを取っても優れていた利家の死は豊臣家にとって大ダメージ。

家康も利家の言うことは素直に聞くくらい、大きな力をもっていた人物だ。これを機に、状況が大きく変わることになる。利家が亡き今、家康は独走状態。

またもやルールを破り、さらには兵を増幅したり城を改築したり、天下取りを匂わすよな行動が目立つようになった。もちろん三成は阻止しようとする。各地の大名に家康の危険性を示した書状を送った。

もちろん、この書状のことは家康の耳にも入ってくる。三成を邪魔に思った徳川家の家臣、黒田長政、浅野幸長、池田輝政、細川忠興、加藤清正、福島正則、加藤嘉明らは三成を暗殺しようと動いた。

徳川家の中でも指折りの武将たちに狙われる三成。事実上、家康を敵に回すことになったわけで、忠義を誓っている家臣たちが腹を立てるのは当然のことだと考えられる。

7人の暗殺者に命を狙われる

画像:島左近の肖像(大阪城天守閣)

島左近は三成の側近を務めていたが、有能な才覚をもち、武術の腕も確かで、指折りの武将として一目置かれていた男。左近は秀吉の家来になることを強く望んでおり、秀吉の直近で働けないならぶしを辞めてもいいと思っていたほど。

そこに現れたのが秀吉の側近であった三成。「1万5000石を差し上げるから私の側近として力を貸してくれないかな」と、左近をスカウトした。はじめ左近は断ったが、しばらくして真剣に悩む。

正直言って、1万5000石は大した価値じゃない。左近なら10万石もらっても不思議じゃない武将だったから。しかし、この1万5000石が左近の心を動かす。

当時、三成の地位は武家に成り上がったとはいえ3万石しか所有していなかった。その半分を三成は左近に差し出そうとしていたわけだ。三成の心意気に胸を打たれた左近は側近として仕えることを承諾。

そして、自分の人生を捧げる覚悟で三成のために能力・武力を注ぎ込んだ。秀吉が死んで間もない頃、三成は城下町を見下ろしながら石田家の家来に言ったという。

「見てみろ、城下町の賑わいを。秀吉様が亡くなっても秀頼様がいるから安心して暮らしているのだ。何があっても豊臣家を潰してはいけない。そのために我々は、ここにいるのだ」と。

この言葉にうなずく家来を尻目に、左近は強ばった表情で三成に意見する。

「秀頼様を盛り上げたいから町が賑やかなわけではない。ただ単に金儲けをしている連中が目立っているだけ。一歩、城の外に出れば路地裏では飢えた農民や子供が命の選択を迫られている。本当の安泰と繁栄を願うのであれば、しっかりと目を見開いて物事を判断しなくてはなりません」と。

左近は、三成の顔色を伺う無能な家来ではなかった。三成の短所と長所を冷静に見極め、三成を支えようと腹を決めて自分の人生を捧げてきたのだから。

左近は三成の長所と欠点を分析し、必要な能力と不必要な能力をすでに見極めていた。

気配りに優れていて頭の回転が早い。秀吉への忠義は並外れていて正義感が強い。武力が頼りとなるこの時代には珍しい優れた教養の持ち主であり、勉学がある。

そして、政治や財務といった実務において現場を仕切る能力がある。そうした長所は認めており、それらをうまく生かしてこそ三成は大成すると考えていた。

一方で短所も把握していた。自信過剰で自分の意見を突き通そうとする。正義感が強く曲がったことが嫌いで不正に厳し過ぎる。小さななミスでも見逃さず、過程ではなく結果で物事を判断する。

すると部下に要求する基準が高くなるため、嫌われる。情よりも正義を重んじる性格で、周囲に敵を作りやすい。むしろ長所よりも短所ほうが多いと左近は思っており、日頃から気にかけていた。

そして、7人の暗殺者が三成の命を狙っていることを知ると、不安を隠しきれず怯えている三成に対し、心を鬼にして左近は究極の選択を迫る。

君がいてくれて良かった

画像:©2017映画「関ヶ原」より島左近(映画「関ヶ原」製作委員会)

左近は三成に言う。「裏で誰かが糸を引いているかもしれない。こちらに向かっている武将たちはいずれも強者ぞろいで石田家の武力では防げない。私が全力を出しても勝ち目はないでしょう」と。

「おい、左近。ならば俺にどうしろと言うのだ?」と、青ざめた顔で聞き返す三成。

「こうなれば講じる手段は一つ。京都にある家康の屋敷に逃げ込むのです」

これを聞いた三成は、さらに青ざめて左近に問いただす。

「おい左近、私が今、家康ともめているのを知っているだろ」と。

左近は鬼のような形相で三成に強く言った。

「窮地に立ったときこそ、よく考えて物事を判断したまえ。もし家康の屋敷内で暗殺されたとなれば家康は周囲からバッシングを受ける。あれこれと変な噂も立つでしょう。しかも暗殺者は家康の優秀な家臣たちです。そんな事件が起きたら家康にとってはマイナスでしかない」

「でも、もし殺されでもしたら・・・」そう言って今にも泣き出しそうな顔で不安な表情を浮かべる三成。

「豊臣家の安泰、秀頼様をお守りするということは簡単なことではない。相当な覚悟がいる。家康の機嫌を損ねれば、こうなることくらい分かっていたはず。命を懸けて豊臣家を守ると決めたなら、命の懸け時を見定めるのも主君への忠義ですぞ!今が、その時ではないのか?」

左近は目の前の恐怖にしか目を向けていない三成に対し、信念と使命を再確認させたのである。三成恐怖のあまり、周りが見えなくなっていた。

視野を広げさせるために、道しるべを与えたのだ。「いかなる場面でも的確な判断と実行力で状況を解決し、器量の大きい人間になって欲しい」という左近の願いが込められてた。

左近のアドバイスに従って家康の屋敷へと逃げ込んだ三成は、暗殺を回避することができた。その代わり、騒動の責任を取らされた三成は五奉行を解任され、故郷の長浜で謹慎することとなる。

7人の暗殺者に対しても家康は階級を下げる罰を与え、平等な裁きとして周囲の武将から信頼が高まった。家康が計画した暗殺かは定かではないが、いずれにしても策略家であることは言うまでもない。

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