戦いの「勝敗」と戦いの「目的」
画像:上杉謙信之画(上杉神社)
戦争の勝敗は、その目的を達成したか否かが重要あり、戦闘の勝敗は関係ない
これは、プロイセン国家の軍事学者・クラウゼヴィッツが自身の著書「戦争論」で述べた言葉だ。
美談を求めない今回のテーマに、ドンピシャな考え方だ。極論、その戦争で目的が達成できれば負けたとしても問題ない、という意味である。
永遠のライバルとして歴史に名を残す武田信玄と上杉謙信だが、計5回にわたり合戦が繰り広げられた「川中島の戦い」は二人の人生が集約された決闘と言っても過言ではないだろう。
ゆえに、戦いの過程で本性も垣間見れる。なかでも激闘と呼ぶに相応しい合戦が4回目の戦い。謙信は幕府から関東官僚に任命され、北条氏康を討つために小田原城に出兵する必要があった。
その過程で信玄の領地にある海津城は邪魔だった。一方の信玄は北条と同盟を結んでおり、関東に攻め込んだ上杉軍を撤退させるために川中島で謙信と交戦することになる。
この合戦で信玄は、弟の信繁や諸角虎定、初鹿野源五郎や山本勘助(実在していた人物か定かではないが)など、武田家の有力な武将を死なせて失ってしまう。
ダメージという視点で見れば、多くの武将を失った信玄の負けになる。
画像:武田信玄之像(甲府駅前-山梨県甲府市丸の内)
しかし、仲間の死は悲しかったが、この合戦は信玄にとって同盟国であった北条を助けるという目的だったので、戦いそのものは「負け」であったとしても信玄にとっては「勝ち」になるわけだ。
一方の謙信は10ヵ月に及び小田原を攻めたが結果的に撤退している。つまり、川中島の戦いで信玄にダメージを与えることはできたが、北条を討つという目的は達成できなかったのだ。
また、信玄は失っただけではない。この合戦で得たものもある。信濃国(長野県)の大部分を獲得し、本来の目的である信濃の平定を成し遂げたことになった。
「戦争の勝敗は、その目的を達成したか否かが重要あり、戦闘の勝敗は関係ない」この言葉を借りて二人の戦いを振り返ると、信玄に軍配が上がったと言えるだろう。
<4回目の川中島の戦い 概要>
1561年、関東管領に就任した謙信は関東の北条を討つために小田原攻めを決意。だが、その前に海津城を落城させる必要があった。兵を挙げ信濃へ出兵する。
上杉軍は妻女山、武田軍は茶臼山に布陣し、互いに睨み合い臨戦状態が続く。その後、武田軍は陣を海津城に移すが、睨み合いは続いたままだった。
先に動いたのは武田軍。山本勘助の提案で部隊を二手に分け、一方が妻女山の後方から奇襲し、もう一方が逃げてきた上杉軍を迎え撃つという啄木鳥戦法(きつつきせんぽう)を決行。
夜のうちに別動隊が出発し、上杉軍の後方に回り込んだ。一方の上杉軍は海津城から上がる炊煙がいつもより多いことに気づき、奇襲があることを察知する。
その日の夜に妻女山を下山し、八幡原に陣を移した。そこは武田軍の本陣の目の前。しかし、この時点では霧が濃く、武田軍は上杉軍が目前にいることに気づいていなかった。
夜明けの霧が晴れると信玄は驚いた。妻女山で別動隊の奇襲に遭っているはずの上杉軍が目の前にいたからだ。上杉軍は”車懸かりの陣形”を用いて武田軍に襲い掛かる。
武田軍は”鶴翼の陣形”で迎え撃った。前半戦は上杉軍が圧倒的に有利な状況であったが、妻女山から戻った別動隊が武田軍に加わり、謙信は撤退を呼びなくされる。
信玄も上杉軍を追うことはなく、撤退した。この合戦で信玄の弟・信繁や虎定、源五郎や勘助といった武田家の重臣が戦死し、両軍合わせて7000人を超える死者が出る激戦だった。
両軍ともに撤退し、実質的には勝敗がついておらず、4度目となる川中島の戦いは引き分けとなる。
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