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天守って何?国宝・重要文化財に登録されている日本の「現存天守」12城

  丸亀城(重要文化財)


画像:丸亀城天守(丸亀市観光協会)

<基本データ>
天守の築造:1660年
アクセス:香川県丸亀市一番
備考:重要文化財

丸亀城は別名「蓬莱城」や「亀山城」と呼ばれ、1468年に奈良元安が支城として築いたのが起源です。

戦国時代には長宗我部元親の讃岐侵攻により廃城しますが、1587年に生駒親正が豊臣秀吉から讃岐(香川)を与えられ、高松城の支城として1597年から丸亀城の建設を開始しました。

完成後、親正の息子、一正が城主となります。しかし、1615年の一国一城令で再び廃城となり1641年には生駒家に代わり山崎家治が丸亀藩の初代藩主として入城しました。

1658年に京極高和が入城し、2年後に完成したのが現在の天守です。ほかにも、大手一の門や二の門なども当時のまま現存しており、天守を含め重要文化財に登録されています。

  高知城(重要文化財)


画像:高知城天守(高知城管理事務所)

<基本データ>
天守の築造:1601年~1611年に造営、1747年に再築
アクセス:高知県高知市丸の内1-2-1
備考:重要文化財

自然災害や廃条令、戦時下の空襲など様々な災難に遭遇しながらも危機を回避し、保存協会や地域住民の尽力により現在まで天守を守り続けた奇跡の城です。

戦国時代、土佐(高知)は長宗我部元親の領地でしたが、1589年に病死すると息子の盛親が跡を継ぎました。しかし、関ケ原で徳川に背いた盛親は土佐を追放。

1601年に土佐20万石を与えられた土佐藩の初代藩主・山内一豊が大高坂山に築城を始め、3年後に本丸、二の丸を完成させ入城します。

三の丸が完成したのは1611年で、1610年に土佐から高知へと改名。1727年に天守が焼失し、現在の天守は8代目の土佐藩主・山内豊敷によって1747年に再築されたものです。

  松山城(重要文化財)


画像:松山城天守(伊予鉄道株式会社)

<基本データ>
天守の築造:1683年に造営、1852年に再築
アクセス:愛媛県松山市丸の内1
備考:重要文化財

1602年、加藤嘉明の居城として勝山に築城したのが松山城の起源。また、翌年には勝山から松山に改名しています。ちなみに、このときの愛媛は伊予と呼ばれていました。

1627年、加藤嘉明が会津(福島)へ移動になると、24万石を与えられた蒲生忠知が入城。1634年に蒲生忠知が死去し、大洲藩主の加藤泰興が松山城を預かります。

1635年、15万石を与えられた松平定行が城主となり、1683年に天守を造営しました。以降、明治維新まで松平氏の居城となっています。

三層天守は落雷で焼失したため、1820年~1852年にかけて再築したものが現在の天守です。現存天守の中で、築城主の印として瓦に「葵の紋」が記されているのは松山城だけです。

  宇和島城(重要文化財)


画像:宇和島城天守(宇和島市観光物産協会)

<基本データ>
天守の築造:1662年~1671年
アクセス:愛媛県宇和島市丸の内1
備考:重要文化財

941年(平安時代)、承平天慶の乱が発端となり橘遠保が砦を築いたのが宇和島城の起源とされています。1000年以上も昔って・・・・、ものすごく歴史のある城なんですね。

戦国時代になると1546年に家藤監物が砦の跡地に丸串城(板島城)を築き、1575年には西園寺宣久が入城しました。別名「鶴島城」とも呼ばれていますね。

1585年に小早川隆景の支配下となりましたが、秀吉の九州攻めにより1595年には藤堂高虎が7万石を与えられて入城。1601年に高虎が丸串城を宇和島城へと建て直しました。

その後、富田信高が入城し、1615年には伊達政宗の長男である秀宗が10万石を与えられ入城。当時は城門が17つ、櫓が33ヵ所ありましたが、現在は天守と上立門を残すのみとなっています。

天守を造営したのは宇和島藩主の2代目・伊達宗利。1662年に城の回収に着手し、1671年までには完成しています。高虎の設計(縄張)が参考になっているとのことです。

  弘前城(重要文化財)


画像:弘前城天守(弘前市観光政策課)

<基本データ>
天守の築造:1611年に造営、1811年に再築
アクセス:青森県弘前市大字下白銀町1(弘前公園)
備考:重要文化財

戦国時代、大浦城や堀越城を拠点に津軽(青森)を統一した津軽為信は、さらに関ヶ原の戦いによって地盤を固め、高岡(弘前市)への移転を計画した矢先に死去。

為信は1600年頃から築城に着工しており、その遺志を三男の信牧が継いで1611年に完成させたのが弘前城です。親子二代築城が引き継がれた珍しい城なんですよ。

弘前城は西に岩木川、東は土淵川が流れ、東西615メートル、南北950メートルの約48万平方メートルの広大な地域に本丸と天守、7つの城郭(門や櫓、石垣や堀など)を築き上げました。

1627年に五層の天守が落雷を受けて焼失してしまい、しばらくは天守が無い状態でしたが、1811年に三層の櫓をリフォームして天守にしました。これが弘前城に現存する天守です。

ほかにも、辰巳櫓・未申櫓・丑寅櫓・大手門・南内門・東内門・東門・北門が現存しています。本丸や二の丸、三の丸や北の丸に関しては当時のままで、貴重な重要文化財として登録されています。

  丸岡城(重要文化財)


画像:丸岡城天守(坂井市丸岡観光協会)

<基本データ>
天守の築造:推定1576年
アクセス:福井県坂井市丸岡町霞町1-59
備考:重要文化財、日本最古の天守

越前(福井)の北部、福井平野の小さな丘に築かれた丸岡城。春になると400本の桜が咲き、城が桜色に染まって霞みがかったように見えることから「霞ヶ城」とも呼ばれています。

城の北東を流れる五味川を利用して堀を造り、石垣の天守台に築かれた2重3階の本丸に天守が造営されています。その北側に二の丸、内堀の外を取り巻く形で侍屋敷が建ち並ぶ三の丸を配置。

越前(福島)を与えられた柴田勝家が養子の柴田勝豊に命じ、1576年に築城したのが丸岡城です。1582年に勝豊が長浜城主となり、近江(滋賀)へ移動すると安井家清が留守を任されました。

その翌年、柴田勝豊が病死。賤ヶ岳の戦で柴田勝家が敗北すると、豊臣の支配下となって4万6千石を与えられた青山宗勝が入城しました。

関ヶ原の戦い後、1601年に越前国を与えられた結城秀康の家臣である今村盛次が城主となります。

丸岡城の天守は現存する城の中で最も古い天守と言われていますが、「いつ天守が造られたのか」は明確な記録が残っておらず、状態や資料から1576年ころに建てられたものと推測されていますね。

  備中松山城(重要文化財)


画像:松山城天守(高梁市観光協会)

<基本データ>
天守の築造:1681年~1683年
アクセス:岡山県高梁市内山下1
備考:重要文化財

1240年に秋葉重信が台ヶ城の砦として大松山に築城したのが松山城の起源。戦国時代には三村元親が拠点にしていましたが、1574年の備中兵乱で毛利元就に攻められ落城します。

ときが経ち、1642年に備中藩主の初代・水谷勝隆が入城し、2代目の勝宗が1681年~1683年にかけて3年にわたる改修工事で天守を造営しました。

天守のほかに本丸二層櫓や三の平櫓、土塀や石垣が現存しています。現存する天守のなかで唯一の山城。人里離れた山に建っていたため、あまりにも不便な場所だからという理由で明治政府は放置。

明治6年に廃城令が出されても「立地が悪いから放置していいよ」と取り壊されず、7円(現在の5万円ほど)で商人に売却されたそうです。それが今では重要文化財なんですから不思議ですよね。

  松江城(重要文化財)


画像:松江城天守(公益社団法人 島根県観光連盟)

<基本データ>
天守の築造:1607年~1611年
アクセス:島根県松江市殿町1-5
備考:重要文化財

別名「千鳥城」。関ヶ原の戦いで功績を得た堀尾吉晴は、出雲(島根)と隠岐(隠岐島)の24万石を与えられ富田城を拠点にしましたが、政治や軍事の利点から交通の便が良い松江に移動。

1607年に城の建設に着工し、4年後に松江城が完成しました。宍道湖の水を利用して堀を築き、天守は亀田山に造営しています。亀田山の頂上が本丸、その南に二の丸、南が三の丸です。

天守は4重5階・地下1階の造りで、建設時の状態を保っているのは現存する天守のなかで松江城だけ。つまり、さほど改築も修復もなく、手つかずのまま現在まで残っているわけです。

また千鳥城の由来は、城が曲線を帯びた三角屋根であり、その景観が「羽を広げた千鳥の姿」に見えることから「千鳥破風の屋根」と呼ばれています。

松山城の天守は千鳥破風の屋根が東西南北の四方に設けられているため、千鳥城という通称が誕生しました。また、宍道湖には千鳥が多く生息しているので、千鳥城と呼ばれるようになった説もあります。

  現存天守12城


画像:改修時の彦根城天守(国宝彦根城天守-修理工事報告書)

明治時代の「廃城令」によって取り壊された城も多く、災害や空襲などで消失した城も数え切れません。昔、天守を備えた城は150以上あったとされ、いかに現存天守が貴重な文化財であるかがわかります。

そして、日本に現存する天守は今回ご紹介した12城のみ。そのうち、4城が国宝に指定され、姫路城は文化遺産にも登録されています。残り8城の天守についても重要文化財です。

歴史ファンなら一度は訪れてみたい城が現存天守。木造は当時のままで、ロマンを感じます。城めぐりや史跡めぐりの際には、ぜひ参考にしてみてはいかがでしょうか。

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