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三菱財閥の元祖「岩崎弥太郎」と坂本龍馬の出会い、トーマス・グラバーとの関係は?

  三菱商会とトーマス・グラバー


画像:1900年頃の弥太郎とグラバー(グラバー園所蔵)
弥太郎は土佐商会が抱えていた借金を肩代わりするという条件で土佐商会を買取り、傘下である海援隊の仕事も引き継いだ。その事業を行う会社として起ち上げたのが「三菱商会」である。

三菱商会は後藤にとって政治的な資金をストックするための金庫的な会社で、弥太郎に土佐商会を引き継がせたのも忠実だったからである。弥太郎も後藤の期待に応えようという強い意志があった。

幕末や龍馬、海援隊といえばトーマス・グラバー。では、弥太郎とグラバーの関係はどうだろうか。

後藤が1866年に設立した「開成館」は武器や弾薬の調達を目的とした土佐藩の機関だが、開誠館は長崎との交流もあって土佐商会も必然的に関与していた。

長崎で武器の取引を仕切っていたグラバーとは、当然ながら付き合いがあった。土佐商会で働いていた弥太郎もグラバーの存在を知り、龍馬が暗殺されて間もなくしてからグラバーに接触する。

当時、グラバーは討幕派の大名や武家などに貸し付けていた金が回収できない事態に陥っており、グラバー商会が所有していた「高島炭鉱」を買取ることでグラバーの負債を軽減した。

これによって弥太郎は石炭と鉱山事業にも参入し、グラバーを三菱商会の顧問・相談役として迎え入れる。グラバーの人脈とアドバイスでアメリカのビール会社を買収し、これが現在の「キリンビール」の始まりとなった。


画像:キリンビール(麒麟麦酒株式会社)

ほかにも三菱商会は海外事業に参入していることから、グラバーの人脈と情報を利用しながら事業を拡大していったことが考えられる。その後押しとして後藤の政治力が三菱商会の成長に貢献したことは言うまでもない。

弥太郎の生涯は後藤象二郎との出会いに始まり、龍馬と激動の幕末を共に過ごし、土佐商会と海援隊の仕事を引き継ぎ、のちにグラバーをビジネスパートナーにすることで三菱商会を強大なものに成長させた。

参考:1976年-坂本龍馬-海援隊始末記(平尾道雄)
参考:龍馬と弥太郎(三菱ホームページ)

  日本で初めてのボーナス支給

1867年3月、世界最大の海運会社であるピー・アンド・オー社(イギリス)が、 上海と横浜航路だけではなく大阪と東京航路にまで進出し、貿易業を柱にしていた三菱商会へのダメージは大きかったという。

価格競争で経営を圧迫された三菱商会は大幅なリストラと経費削減を実行。 社長である弥太郎の給料も50%減らされたほど経営危機に直面していたのだ。

社員は一丸となって働き、イギリスの貿易商たちと攻防・競合すること6ヶ月。ついにピー・アンド・オー社は上海と日本航路からの撤退を決めたのである。

この功績は社員の皆の努力によって成し遂げられたとし、それぞれの社員の働きを上・中・下で評価。その評価に伴い、特別手当として年末に報奨金を支給することにした。

報奨金は給料の1カ月分に相当したらしく、つまりボーナスということになる。その後、 定期的に毎年ボーナスが支給されるようになったのは1888年。

ちなみに、ボーナスの起源は三菱商会だが、定期的なボーナス支給をいち早く導入したのは住友財閥であった。「住友家法」の「賞与例規定によると、住友は一時金という名目で1882年にボーナスの支給を始めた」という記録が残っている。

いずれにしても、ボーナスの起源が三菱商会ということは弥太郎の考えであった可能性が高い。江戸時代に始まった習慣は現代にも多く残っているが、三菱商会のボーナス支給もその一つと言える。

三菱財閥の開祖として知られる岩崎弥太郎も、幕末を駆け抜けた一人。幕末は、徳川や薩長に関する名の知れた人物がクローズアップされがちだが、土佐藩や長崎の商人たちが切磋琢磨していたことも忘れてはいけない。

参考:三菱社誌(三菱広報委員会)

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