片桐且元
画像:片桐且元の肖像(京都市大徳寺塔頭玉林)
片桐家は浅井家に仕えていた武家ですが、織田信長によって浅井長政が滅ぼされ、長浜城主となった羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)に仕えました。このとき、且元は18歳。
秀吉の時代には奉行として検地や街道の整備など武力以外でも手腕を発揮し、秀吉の息子・秀頼の教育係にも任命されていますね。秀吉の死後、家康との関係を縮めるようになり、且元は大阪に邸宅のない家康を自宅に泊めるほど良好な関係を築きました。
それなのに関ヶ原の戦いでは西軍に加勢し、弟の貞隆を大津城攻めに派遣しています。合戦後、厳しい処分が下るかと思いきや、徳川家と豊臣家の間を取り持ったことから大和竜田2万4千石を与えられています。
関ヶ原以降も豊臣家に仕えながら家康の検地や寺社統制にも協力的で、朝廷との交渉も担当しました。しかし、1614年に「方広寺の鐘銘事件」が起こると秀頼と家康の関係は悪化し、いよいよ且元もどちらかを選ばなくてはならなくなるのです。
家康は秀頼に対し、「駿府と江戸への参勤」「淀殿(秀頼の母)の江戸詰め」「大坂城の退去」、このいずれかを承諾すれば鐘銘事件について許すと打診したのですが、豊臣勢は全力で拒否。
むしろ「かかってこいや家康!」と臨戦状態。その際、且元は豊臣勢から「家康のスパイじゃないの?」と疑われ、あげくの果てには暗殺されそうになったため、且元は弟の貞隆や家臣を連れて大阪城を去りました。
これにより且元は家康に仕えることになり、大坂冬の陣では徳川軍として出陣しています。真田丸の攻防で苦戦を強いられ、家康は大阪城を且元らに大砲で狙い撃たせ、昼夜を問わず続けられた砲撃により兵を消耗した豊臣家は家康の申し出た条件で講和を締結。
そして翌年の大坂夏の陣。且元は「もう年なんで参戦しなくていいですか?」と申し出ましたが家康に拒否され出陣。
序盤から家康の圧勝で大阪城が落とされる寸前に且元は豊臣勢の大野治長から「秀頼様の命だけは助けてやってくれ」と懇願されますが、それを且元が秀忠(のちの2代目徳川将軍)に知らせたため秀頼は自害したと言われています。
大坂夏の陣から20日後、且元は他界。一説によると秀頼を助けられなかったことを悔いて自害したという説もありますが、晩年に患った肺病が悪化して病死したという説のほうが有力視されていますね。
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