苗字の成り立ち
カンヤマトイワレヒコノミコトが奈良を目指した際、お供して一緒に戦った道臣命(ミチノオミノミコト)の子孫が大伴氏で、ニギハヤヒの子孫は物部氏と言われている。
この「大伴」や「物部」が苗字の原型にあたる。物部氏は飛鳥時代の後期に天武天皇から「朝臣(あさみ)」という苗字を与えられ、大伴氏も平安時代の中期に「朝臣」を与えられている。
これが苗字の起源であり、天武天皇が684年(平安時代)に定めた「八色の姓(やくさのかばね)」である。朝臣のほかにも7つの姓(苗字)が制定され、2番目に地位の高い姓が朝臣である。
一番上が「真人(まひと)」という姓だが、これは皇族(天皇家の一族)に与えられ、皇族に仕える臣下の中では最も地位の高い姓が「朝臣」だった。
※大伴氏・・・飛鳥時代から平安時代の中期に存在した貴族。もとは氏族。薩摩藩の家老・小松帯刀の先祖
※物部氏・・・飛鳥時代から奈良時代の後期に存在した貴族。もとは豪族。戦国武将・浅野長政の先祖
ほかにも、次の一族が天皇家から「朝臣」の姓を与えられている。
※源氏(源朝臣)・・・鎌倉幕府を開いた源頼朝の先祖。
※平氏(平朝臣)・・・平将門が初代であり、源氏に滅ぼされた一族。平清盛の先祖
※藤原氏(藤原朝臣)・・・中臣鎌足が初代。上杉家や伊達家の先祖
※菅原氏(菅原朝臣)・・・ 学問の神様として名高い菅原道真の先祖
※大江氏(大江朝臣)・・・毛利家の先祖
※豊臣氏(豊臣朝臣)・・・中臣鎌足の子孫。羽柴秀吉が関白に就任したときに正親町天皇から与えられた姓。以降、豊臣秀吉と名乗る。秀吉は豊臣氏の一族ではないが、特別に許されている
つまり、この頃の姓とは、天皇から授かる(賜る)高貴なもので、「個人の家柄や血筋(素性)を証明するステータス」だったと言える。元々は天皇家と関わりが深い上級の家系に与えられた称号というわけだ。
しかし、鎌倉時代になると源氏や平氏、藤原氏が主な貴族だったため、それぞれの一族に雇われている武家が源や平、藤原を名乗って誰が誰だか区別がつかない状態。
「私は源だ。私も源です。あなたも源ですか?」そんな状況があちこちで発生してチンプンカンプン。そこで、武家たちは雇われ主の姓を名乗るのではなく、自分で苗字を決めて名乗り始めた。
たとえば、藤原氏に仕える武家なら、九条・鷹司・一条・三条・五条など、藤原氏の京都に関係する地名を苗字として名乗っていたという。また、自分が住んでいる地名を苗字として名乗っていた武家もいた。
土地の名前を苗字にした有名な武家が、源氏に仕えていた足利家。足利(現在の栃木県足利市)を領地にしていたので、足利という苗字をつけていたとされる。これが、苗字の成り立ちであり、起源である。
地名に関する苗字が多い?
わずか8つの姓から始まったわけだが、今では全国に29万種類を超える苗字が存在している。職業や地名など由来は様々だが、やはり最も多いのは地名から名付けられた苗字。
昔はその村の村長が土地の名前を名乗っていたため、それ以外の村人は区画を指す”小字(こあざ)”を苗字にしていた。 現代では少なくなったが、今でも小字で区画されている地域もある。
たとえば、兵庫県川辺郡猪名川町上野字北畑なら、北畑という地名が小字。これに対し、上野字は”大字(おおあざ)”になる。実際、この地方に先祖をもつ人は北畑という苗字が多い。
ほかにも、田んぼに囲まれた地域に住んでいたから「田中」と名乗った人や、山の下に自宅があったから「山下」と名乗った人など、深く考えず苗字を決めていた人が多かったようだ。
しかし、なかには由緒ある苗字もある。壇ノ浦の戦い(源氏と平家の戦い)で平将門を討ち取ったとされる藤原秀郷の子孫・藤原公清が、左衛門尉(国に仕える位の高い役職)を務めたので「佐」と「藤」と名乗ったのが「佐藤」の由来らしい。
また、物部氏の子孫の穂積氏(ほづみ)の人たちが、その地方では穂を積んだ物を「すずき」と呼んでいたことから「鈴木」と名乗るようになったという話もある。
さて、1875年2月13日は、明治政府が発令した「平民苗字必称義務令」により、すべての国民が自分の名前に「苗字」を付けることが義務づけられた日。
普段は気にしない自分の苗字だが、「どのように名付けられたのか」そのルーツを探ってみてはいかがだろうか。今まで知らなかった意外なことがわかるかもしれない。
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