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歴史年表まとめ!「奈良時代」の日本では何が起きていた?(前編)

720年 日本書紀が成立する

歴史年表まとめ読み!「奈良時代」の日本では何が起きていた?(前編)
画像:日本書紀の複製(南雲書店)

日本書紀は天武天皇の命を受けた舎人親王(天武天皇の三男)が中心となって編纂し、古代から持統女帝(41代目)までの時代に関する出来事を記した歴史書になります。

日本最古の歴史書と称される古事記に対し、日本書紀は日本で初めての「正史(国家が公式に作成した史書)」とされています。

しかし、史書といっても一説には天武系統の正統性を示す目的があったと言われており、史実としての公平さが曖昧という見解もあるようです。

天武天皇が672年の壬申の乱(下記参照)に勝利し、それ以降の皇位は天武系統が継承したわけですが、その正統性(正統な後継者という主張)を示しているという見方が強いようです。

とはいえ、天武天皇から始まる系譜は日本の古代史に深く関与しており、日本書紀の意図の是非を問わず日本の歴史に多大な影響を与えた人物であることは間違いないでしょう。

720年に完成した日本書紀は、文武天皇の姉である元正女帝(44代目)に献上されました。

※天智系統・・・天智天皇(大海人皇子)を祖とする子孫
※天武系統・・・天武天皇(中大兄皇子)を祖とする子孫

※壬申の乱
皇位継承を巡って勃発した日本古代における最大の内乱。
天智(兄)と天武(弟)は同母の兄弟であり、天智天皇の息子である大友皇子に対し、大海人皇子(のちの天武天皇)が反乱を起こし、勝利した内部抗争。

内乱の原因として有力な説は、大海人皇子を支持する勢力が形成され、それら派閥が大海人皇子の皇位継承を主張したことが火種となり壬申の乱へ発展したとされている

723年 三世一身法を定める

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645年(飛鳥時代)に始まった大化の改新では律令制が定められ、その基盤として施行されたのが公地公民と班田収授法でした。

646年に発布された公地公民(すべての土地と人民は土地に帰属するという政策)では、国内の土地すべてを朝廷が管理し、私有地は認めないと定められました。

そして、班田収授法とは朝廷が管理する土地を農民に貸し、その土地で稲を育てさせ、収穫された稲を徴収することを定めましたが、そもそも分け与える農地が不足していたのです。

つまり、土地はあっても農地として利用できない未開拓の土地だらけ。

そこで朝廷は土地の開墾(耕しなさい)を人民に推奨し、やる気を出させるために大宝律令(701年に制定。法律の原点)の一つとして723年に「三世一身法」を発布しました。

開拓した農地を貸すにあたり、開拓者の子供・孫・曽孫の代まで収公しない(その農地を取り上げない)ことを約束する制度でした。

でも、開墾には労力と費用がかかるため、貴族や寺社など経済力のある者が積極的に開墾を行うという問題が生じることになります。

これの何が問題というと、貴族や寺社が開墾した土地は朝廷の管轄下に置けなかったからです。つまり各地の有力者(氏族や豪族)が私有地を増やすきっかけになったわけです。

しかも、朝廷の管轄下に置けない土地は班田できない(所有者の許可なく農民に分け与えることができない)農地ですし、三世一身法を利用して私有地の拡大を進めていった豪族が藤原氏でした。

平民のためを思って制定された三世一身法は、藤原氏が比類なき荘園(公的支配が及ばない一定規模以上の私所有)を築いて強大な権力をもつまでに成長する"きっかけ"となったのです。

724年 聖武天皇の即位

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画像:聖武天皇(御即位10年記念皇室特別展)

天武天皇(40代目)の孫である文武天皇(42代目)が崩御(他界)したあとは元明女帝(43代目)から元正女帝(44代目)へ皇位継承され、そして724年に45代目となる聖武天皇が即位しました。

一説によると、聖武天皇は虚弱体質で内向的だったそうで、聖武天皇が施行したとされる国分寺や東大寺の造営などは光明皇后(聖武天皇の正妃)の助言によって成立したと後世に伝わっています。

729年 長屋王の変

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画像:光明皇后(菱田春草・画)

飛鳥時代に蘇我氏を朝廷から排除し、天智天皇(38代目)の即位に貢献した中臣鎌足が藤原氏の始祖ですが、その息子である藤原不比等は藤原氏が日本最大の氏族となる基盤をつくりました。

不比等は官僚として持統天皇(41代目)に仕え、697年に文武天皇(42代目)が皇位継承すると娘の宮子(長女)を文武天皇と結婚させ、皇族と外戚になった不比等は朝廷の政務に加わるようになります。

※外戚とは、天皇と自分の娘を結婚させて(姻戚を結んで)天皇家と親戚になること

宮子が首皇子(のちの聖武天皇)を産むと、今度は娘の光明子(次女)を後宮(天皇や皇后が住む部屋)に預け、聖武天皇(45代目)と結婚させるルートを確保しました。

そうして権力を高めていった藤原氏に長屋王(左大臣)は反感を抱いており、反藤原派の筆頭でした。また、長屋王は次の皇位継承者として最有力候補者でもありました。

一方、不比等の4人の息子(武智麻呂・房前・宇合・麻呂)らも朝廷に仕えながら次第に権力を強めていきます。

長屋王は光明子(のちの光明皇后。藤原不比等の娘)が皇后になるのを反対しており、藤原4兄弟にとって長屋王は厄介な存在でした。

藤原4兄弟は「長屋王が謀反を企んでいる」と騒ぎ立て、長屋王に無実の罪を被せることに成功します。失脚した長屋王は自害し、729年に光明子は皇后(聖武天皇の正妃)となりました。

光明皇后の成立と共に元号が天平へと変わり、不比等の息子たちが権力を牛耳るかと思われた矢先の天平4年頃から凶作による飢饉が目立ち始め、雲行きが怪しくなっていきます。

さらに翌年は大地震も発生し、天平7年には天然痘が流行り病になるなど国内は混乱を増していくのです。なお、藤原4兄弟も天然痘を患って737年に4人すべて病死しています。

不穏な世相を打破するために、聖武天皇は「国分寺の建立」「大仏の造立」を決意。仏教の力で災いを取り払おうと考え、鎮護国家の成立に向けて日本は大きく動き始めるのです。

※鎮護国家とは「仏教には国を守護・安定させる力がある」という思想のもと築かれる国家

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