大日本帝国憲法が完成するまでの経緯
画像:国立公文書館
大日本帝国憲法が完成するまでには、明治維新に尽力した幕末の人物が数多く関わっている。板垣退助や岩倉具視、西郷隆盛や後藤象二郎、伊藤博文や井上毅、江藤新平や副島種臣などが代表的。
江戸時代が終わり、明治時代になっても国の情勢は簡単には安定しなかった。新政府は明治政府の方針として「五箇条の御誓文」を提唱し、これを明治天皇が誓約することで成立した(1868年)。
新しい国家を築くために”国の指針・方針”を定める必要があり、身分に関係なく万人が守るべきルールをつくり、国家の安定を実現したかったのだ。縛らなければ安定は望めない・・・と。
<五箇条の御誓文>
一、政治的な事柄を決定するときには議会を設置して公論しなければならない
二、国民が一つになって新しい国をつくっていこう 三、身分制度を廃止して国民が豊かに暮らせる国づくり 四、鎖国的な考えはやめて外国と対等な関係をもてる国際社会を目指す 五、知識を諸外国から学び、天皇を中心とした政治の基盤をつくる |
しかし、これはあくまでも指針であって厳密なルールではなかった。もっと詳細な決まり事や方針を定める必要があり、大日本帝国憲法の制定へとつながっていく。だが、そう簡単に解決できる問題ではなかった。
1873年から国の政治を巡って自由民権運動が始まる。「武力による統治も必要」と主張した西郷隆盛、板垣退助、江藤新平、副島種臣などが政府の職を辞めさせられる。
板垣退助、後藤象二郎が「民選議員設立の建白書(国民が議員を選ぶべきだ、という提案書=選挙」)を政府に提出したことをきっかけに自由民権運動が本格化する。(1874年 明治六年の政変)
政府の考えや行動に疑問を感じた西郷隆盛は天皇と対立。西郷隆盛が率いる薩摩軍と大久保利通が指揮をとる政府軍が戦い、鹿児島・城山で西郷隆盛が死去する。(1877年 西南戦争)
大久保と西郷は明治維新に尽力した親友で、二人の分裂を物語った事件としても歴史的な出来事である。これに続くように3ヶ月後、長州の木戸孝允(桂小五郎)が病死する。
翌年には大久保利通が政府に不満を抱く元・武士6名に暗殺され、自由民権運動は勢いを増した。1879年にはフランスの法律家であるボアソナードが政府の依頼を受けて民法の草案に着手する。
1880年に刑法(治罪法)が制定され、1881年に国民から圧倒的な支持を受けていた板垣退助が自由を起ち上げ選挙制度や民主主義を掲げ政府と対立したが、わずか3年後の1884年に解散となった。
1882年に日本銀行が設立。五箇条の御誓文から14年、未だ成し遂げられない憲法の制定。
ついに日本国憲法が完成
伊藤博文は憲法制定の調査として1882年から1年間、ヨーロッパの各地を訪問しながら各地で様々な資料を読み、ドイツ政府の顧問を務めていた法律家のロエスレル、モッセらにアドバイスをもらい憲法の草案に着手した。
帰国後、1886年から憲法の作成に取り掛かる。伊藤は井上毅をリーダーにし、伊東巳代治、金子堅太郎らとともに神奈川県横浜市金沢区(金沢八景)の東屋旅館に泊まり込み、草案を作成する。
ロエスレルにも来日してもらい、法律の知識や国際的な意見も取り入れながら着々と進めていく。3パターンの下書きが完成し、「さぁ、あとは仕上げるだけだ」という矢先、草案の下書きを入れたカバンが何者かに盗まれてしまう。
まさか自由民権運動を行っている反・政府の人間に盗まれたのか・・・と思い、「やばい、やばい、内容を見られたら大変なことになる」と慌てふためく4人。
そこへ旅館の中居が現れ、「泥棒が入ったみたいで・・・」と玄関先にカバンが置かれていたことを知らされる。急いで確認すると、金銭は盗まれていたが草案の下書きは盗まれていなかった。
単なる泥棒の仕業で金品以外の物には興味がなかったようだ。もっと安全な場所に移動しようと考えた4人は伊東の別荘に作業場を移し、ついに大日本帝国憲法の草案が完成する。
完成した草案を天皇家の機関(事柄を審議する機関)である枢密院(すうみついん)に提出し、明治天皇を交えて審議する。多少の修正はあったが、ほとんどの内容が了承された。
これをきっかけに、伊東は枢密院の議長に任命される。1889年、喜びを称えるという意味を込めて紀元節である2月11日を選び、大日本帝国憲法の発布式が行われた。
建国記念の日と憲法には深いつながりがあったわけだ。
大日本帝国憲法の作成が進められていることは限られた者しか知らず、伊藤が秘密裏に行い、調査から7年で完成している。このスピードは、当時で考えると神業的な速さ。
そのため、「伊東の独裁主義で勝手に決めた憲法だ」という者もいたが、それは違うと思う。江戸時代が終わっても情勢が安定しない明治時代。あげくの果てには、政治を巡って反・政府的な運動まで起こる。
早急に憲法を制定し、内乱を安定させたかった伊藤。これは偉業とも言える出来事で、日本は東洋で初めて近代的な憲法をもつ国家となり、国際社会の基盤をつくるきっかけとなった。
2月11日という日は、日本にとって重大な出来事が起こった日。建国記念の由来である「紀元節」と、「大日本帝国憲法の発布式」が行われた歴史的な日。
幕末、明治維新、明治時代、多くの人たちが血を流し、それぞれが新しい国家と日本の未来を考えて命を懸けて尽力した末に完成したのが日本国憲法である。
憲法との関りが強い建国記念の日。単なる祝日としてではなく、日本に生まれた国民として大まかな背景くらいは知っておきたいところである。
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