「弓取り式」も信長が起源?
大相撲で全試合が終わったあとに行われる「弓取り式」も信長が起源とされている。
信長が、ある相撲大会で勝ち抜いた宮居眼右衛門(みやいげんえもん)に褒美として重藤の弓(長弓のこと)を与えたのが弓取り式の由来だとか。
信長は優勝した力士や見事な戦いっぷりを見せた力士、気に入った力士には褒美を与え、ときには家臣にする場合もあったため、参加者が1000人を超える大会も珍しくなかったという。
また、参加者の中には生い立ちや身元が定かでない者もおり、そうした者たちは「出世のチャンス」として力士を名乗り、信長が催す大会に出場していたという。
しかし、宮居眼左衛門は弓をもらった直後に相撲を辞めてしまう。「なぜ相撲をとらないのか」と信長が寂し気に聞くと、このように答えた。
「相撲は力が強いから勝つというものではない。今回は私が勝ちましたが、私が負ければこの弓は別の誰かの手に渡る。その者が信長様の敵になったら、せっかくの名誉が虚しくなる」
つまり、宮居眼左衛門が言いたかったことは、こうだ。
「次回の大会で私が負ければ、この弓は別の誰かの手に渡る。その力士が信長の敵になり、その弓で信長が殺されるようなことが起きたら悲しい。だから、それを防ぐためには弓を持っている私が参加しないのが一番の方法と思った。そうすれば、この弓を別の誰かが得ることはない」
この言葉に感銘を受けた信長は宮居眼左衛門を織田家で雇い、それ以降の相撲大会では勝者に弓を与えなくなったそうだ。
安土城跡の近く安土城下町に眼左衛門という地名(当時の番地は大字下豊浦字)があるが、その由来は宮居眼左衛門の屋敷(現在は宮居眼左衛門の屋敷跡)があったからだという。
安土城は信長が住んでいた城。その近くに宮居眼左衛門の屋敷を建てたということは、よほど信長から気に入られていたことがわかる。よほど、相撲が好きだったのか・・・。
画像:安土城下町の図
当時、日本に来日していたカトリック教徒のルイス・フロイスは日本史に、「信長は身分の上下に関わらず裸の男たちを競い合わせる趣味があった」と記している。
また、信長は年に2回~3回、多いときには年4回の相撲大会を開いたと言われている。現代の大相撲が年間6場所というのも、何か関係があるかもしれない。
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