安土城を建てた理由
戦国時代の城といえば攻防戦や籠城に備えて設計するのが一般的。しかし、安土城の構造を見ると「戦いや防御のために築いた城ではない」ことがわかる。信長の権威を天下に知らしめるための城である。
もちろん、それだけではない。地形にも興味深い点があり、安土城の造りで気になるのは「大手道」である。大手道とは、安土山の麓から山頂にある安土城の天主に向かって真っすぐに伸びている道。
石段の幅は7メートルもあり、さらに両側には1メートルの敷石がある。しかも、この広々とした石段(階段)が200メートルも直線に進んでいる。
石段の両端の敷地には前田利家や豊臣秀吉の屋敷が建てられ、敵が攻め込んでくれば応戦できるように備えていたが、広い石段は簡単に侵入しやすいので城の弱点になってしまうはず。
確かに弱点ではあるが、広い石段を造ったのはそれよりも大切な目的があった。
安土城は正親町(おおぎまち)天皇を迎えることを想定して造ったのではないかと言われており、この広い大手道は天皇が輿(こし)に乗ったまま御殿のある本丸まで行けるように配慮したと広さと思われる。
1577年に発見された記録書には天皇を安土に迎える計画が記されており、そのことを着工の段階から考えていた可能性が高いと言えそうだ。
事実、清涼殿(天皇が住む家)も城内に設けられていたことから、さらに信憑性は高くなる。
なぜ信長は「天主」と呼んだ?
また、城郭の中心にある豪華絢爛な「天主」は、通常なら”天守”と呼ぶのだが、安土城の天守は「天主」と名付けている。天主とは天の主であり、神々の上に立つ存在を意味している。
信長と親交があったルイス・フロイス(キリスト教徒)の著「日本史」には、「安土城内にある摠見寺の神体は私であると信長が語った」と記されている。
通常の天守閣は人が住むためのものではなく、非常時の食料や重要な資料を置いておくための貯蔵庫であり、櫓(やぐら)のような目的で使用される。しかし、信長は天主で暮らしていた。
画像:安土城天主信長の館
当時、カトリック教の神と思われていたデウス(ラテン語)が天主の由来とされている。カトリック教の教会を天主堂と呼ぶのは、そうした理由があるからだろう。
信長はデウスと自分を重ね合わせ、安土城の天守には”神を超える存在が住む場所”という意味が込められていたのではないかと考えられる。
1576年に着工した安土城の築城は、1579年の初旬に完成。信長は自分の誕生日5月にあわせて天主に住まいを移した。その造りに感銘を受けた信長は「見事!」と手をたたいたそうだ。
1582年の冬、信長は町民を招いて安土城をお披露目している。入場料は一人あたり100文(およそ3,000円)で、あちらこちらに提灯を飾って美しくライトアップしたとのこと。
安土城は防御が弱い城だが、いざというときのために避難場所も用意していた。安土城から徒歩圏内にある観音寺城である。その城は中世の日本において最大の城郭と称されるほど立派な造りになっている。
もとは近江源氏の佐々木氏が築いた城だったが、信長が足利義昭を護衛して京都に出向いた際、観音寺城に住んでいた六角氏を攻め落として略奪した。
また、安土城は安土山全体が石垣で囲われているような造りで、城の周りはすべて土手になっている。これを見る限り、戦うために造った城ではないことが推測できる。
安土城は本能寺の変が起きたあと何らかの原因によって焼失し、その後、1585年に廃城となった。現在は石垣など一部の遺構を残すのみで、天主のレプリカは安土城天主・信長の館に展示されている。
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