傘連判状
画像:明和一揆の傘連判状(旧山下屋敷)
傘連判状は、古くは鎌倉時代の後期から存在していた連判状の形式で、主に中世の武家が同盟など共同する際の契約として用いていたとされています。
円形に署名することで、上下関係(どちらが立場が上か)を明確にしないのが目的でした。つまり、連判状に名を連ねる者たちは、みんな平等な立場であるという意味。
しかし、江戸時代に入ると百姓一揆が頻発するようになり、百姓らが一揆を起こす際に「誰が首謀者(リーダー)なのか分からなくするため」に傘連判状を用いたそうです。
当時は連帯責任ではなく、一揆の首謀者だけが処罰されていました。
1741年に幕府が発令した「御定書百箇条(おさだめがきひゃっかじょう )」には、 一揆の指導者を 死刑にすることが定められています。
なぜ幕府は、一揆に加わった者たちを罰しなかったのか。
答えは至ってシンプルです。一揆に関わった百姓ら大多数を罰すると農業従事者が減ることになり、つまりは米や野菜など食料が不足する原因になってしまうわけです。
最終的に強いのは米をつくる農民なんですよ。それを逆手にとって百姓らが用いた傘連判状。
ちなみに、江戸時代に起きた一揆は2800件を超え、村方騒動(幕府に対するデモ活動)も合わせると3400件を超えています。
それだけ多くの暴動が起きていたのですから、傘連判状は江戸時代において米と関わりの深い出来事と言えるでしょう。
株仲間解散令
画像:水野忠邦(首都大学東京図書情報センター)
株仲間解散令とは、天保の改革(1831年)で施行された政策の一つ。
江戸の物価が高騰している原因が「株仲間」の価格吊り上げにあると判断した老中の水野忠邦は、株仲間を解散させることで物価が安定すると考え、幕府は株仲間解散令を発布しました。
当然ながら"物価"には「米」も含まれていました。
この政策、結論を言うと失敗に終わります。
株仲間とは、同じ業種の商人らが一つの団体を作って販売を独占する協同組合のこと。そうなると、競争相手がいないので商品の価格は自分らが勝手に決めれるわけです。
そもそも、この方法を推奨したのは幕府。営業を独占させてあげる(独占権の)見返りとして幕府は株仲間から独占料を徴収していたんですね。
とはいえ、商品の仕入れや流通など市場に出るまでの管理も株仲間が担っていたので、解散した途端に一本化されていた流通ルートが乱れてしまい、商品が届かないといった問題が生じました。
価格が下がる以前の問題で、商品そのものが不足するという本末転倒の混乱を招いたのです。
木を見て森を見ずとは、このことですね・・・。
大塩平八郎の乱
画像:菊池容斎・画「大塩平八郎」(大阪城天守閣)
「傘連判状なんて必要ねぇ」と言わんばかりに首謀者が丸わかりの騒動が大塩平八郎の乱。
大塩平八郎の乱とは、大坂町奉行所の与力(町奉行の補佐)だった大塩平八郎が悪代官の不正を世に知らしめるために起こした反乱です。
天保の大飢饉(1835年~1837年)によって人々は苦しんでおり、米が不足し、死人も相次いでいました。
そのような状況の中、大坂町奉行の役人らは米を買い占め、金儲けを企んだのです。
「米が不足すれば物価が上がる、そのタイミングで高く売ろう」と時代劇さながらの悪代官ぶりで米を買い占めていたんですね。
ただでさえ不足しているのに、そんなことしたら飢え死にする人が増えてしまいます。
これを見過ごせなかったのが大塩平八郎です。大坂町奉行に対して反乱を起こし、奉行所の不正を公にし、あわよくば米を奪おうとしましたが半日で鎮圧され失敗に終わります。
しかし、平八郎の正義の行いは無駄ではありませんでした。この出来事は口コミで広がり、それまで奉行所の言いなりだった農民たちが各地で反乱を起こすようになりました。
日本史と米
江戸時代に限らず、明治時代の1890米騒動や大正時代の1918米騒動など、米価の高騰で暴動に発展した大事件は昭和に至るまで起きています。
今では手軽に入手できる米も時代が違えば、こんなに貴重なものだったことが分かります。これを機に、あらためて"米の大切さ"を感じることができました。