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なぜ豊臣秀吉は怒ったのか?天下の茶人「千利休(せんのりきゅう)」が切腹した理由(前編)

利休が秀吉を怒らせた理由は?

利休が秀吉を怒らせ謹慎になった理由として、いろいろな説が述べられている。

●安物の茶器を高額で売るなど、人を騙して利益を得ていたから
●利休が信楽焼の茶碗を作っていることを聞いて処分するように命じたが利休が拒否した
●秀吉が利休の娘を側室に望んだが利休が拒否した
●秀吉の朝鮮出兵を批判した
●政治のことに口出ししたり意見するようになった
●権力者である秀吉と芸術家である利休の価値観が行き違った
●大勢の人が集まる大切な茶会で秀吉に茶をこぼした
●利休が家康のスパイで茶に毒を入れて秀吉を殺そうとした
●秀吉の重大な秘密を握っていた利休の存在が邪魔になった
●大徳寺の正門に利休の木像が建てられ、秀吉は寺に入るときに木像の下を歩かされたから
●拡大する利休のネットワークに危機を感じ、それを阻止するため

など、様々な説があり、どの説が正しいのか未だ解明されていない。

個人的に興味深いのは、”利休が家康のスパイだった”、”秀吉の重大な秘密を握っていた”、”拡大する利休のネットワークを恐れて殺した”、”木造の下を歩かされて秀吉が怒った”、これら4つの説である。

利休は家康のスパイだったのか?

家康は信長と同盟(清洲同盟)を結んでおり、織田家に頻繁に出入りしていた。利休は織田家に仕えており、その頃から家康は利休と親交があったようだ。

下記の書状は、利休が茶の湯の道具を世話したことに対し、家康が礼を述べたことを記す記録である。具体的には、利休が家康の茶壺の詰茶を世話していた、茶器の手入れをしていた、とのこと。


画像:徳川家康書状 千利休宛(表千家北山会館)

趣味や趣向を嫌う家康は茶道に興味はなかったが、教養を学ぶために利休と向き合っていたという。

秀吉の死後、江戸幕府を開いた家康だが、信長が死去した頃にはすでに天下をとることを考えており、天下を治めて国を安定させるためには大阪の商人を味方につけておく必要があった。

そして、大阪の生まれである利休は大阪の商人たちと交流が深かったし、彼らに強い影響力をもっていたので利休を味方につけることは大阪を手に入れる最短ルートだと家康は考えただろう

事実、江戸時代に物流や商業の中心地となった大阪は「天下の台所」と呼ばれ、大阪を中心とする京都など関西圏は徳川家の財政を支える重要な役割を果たしている。

また、利休は秀吉の独占欲にも懸念を抱いていた一面も垣間見れる。女好きや派手な趣向、お金に対する異常な執着や有無も言わさず気に入らない者を排除する暴力的な行動など、懸念点が多かった。

そして決定的な出来事が朝鮮への侵略を秀吉が計画していたこと。秀吉は朝鮮に攻撃を仕掛けて植民地にしようと企んでいたが、この思惑に利休は大きな疑念を抱く。

出兵すれば多くの命が失われ、下手すれば朝鮮の返り討ちを受けて日本の危機を招くかもしれない、と。

家康は利休に近づき、説得したのではないだろうか。「秀吉の動向を探ってほしい。不穏な動きがあれば知らせてほしい。秀吉が暴走しそうなときには食い止めなければならない」と。

利休が「茶に毒を入れて秀吉を殺そうとした」とまでは言わないが、もし家康と内密につながっていたとしたらスパイだと思われるだろうし、利休に対して秀吉が激怒するのは間違いないだろう。

利休の死後、長男の道安と養子の少庵は大阪から岐阜へ追放され、利休の弟子であった金森長近に助けを求め世話になっている。しばらくして少庵は、蒲生氏郷を頼って会津で身を潜めて暮らした。

1594年には徳川家康・前田利家・蒲生氏郷の仲介により道安と少庵は秀吉の許しをもらい、京都へ戻る。この仲介は家康の主導で行われたと言われており、利休との関係性が疑われる要素かもしれない。

秀吉が再三、利休を京都に呼び出していたのは、もしかしたら尋問していたのではないだろうか。

利休は言い訳一つせず謹慎や切腹に従っていることから、利休と家康がつながっていたことを秀吉が知っていたとしても証拠がないので家康を責めることはできないし、力のある家康と対立しても秀吉は得しない。

利休は”真実”を墓場まで持って行ったのだろう。これらは、あくまでも推測だが興味深い説である。後編では、さらに興味深い3つの説について考えていこう。

後編は、こちら↓
なぜ豊臣秀吉は怒ったのか?天下の茶人「千利休(せんのりきゅう)」が切腹した理由(後編)

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