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大阪夏の陣で散った戦国最後の武将「真田幸村」は「A型」の情熱家タイプ?

真田 日本一の兵(つわもの)


画像:黒田屏風「大坂夏の陣図屏風」真田軍の合戦風景(大阪城天守閣所蔵)

だが、一歩間違えれば真田丸は簡単に壊されていた。では、真田丸に勝利をもたらせた要因は何だったのだろうか。それは、幸村の「プラン」「ポテンシャル」にほかならない。

幸村は、自分の作戦を信じていた。自分がもっている”戦のセンス”を信じ、徳川軍が挑発に乗るまで待ったのだ。そして、必ずやり遂げてみせるという「熱意」があったからこそ実現することができたと言える。

普段は冷静沈着なA型でも、時には大胆な行動をとったり怒りをあらわにしたりする。幸村も、そうした一面をもっており、過去に大胆不敵な行動で何度も周囲を驚かせている。

さて、大阪冬の陣は家康の条件を秀頼が承諾して和解という形で決着がついたが、家康も思いもよらない結果に当然ながら腹が立っただろう。

冬の陣から1年後、またもや大坂城を舞台にして徳川軍と豊臣軍の戦いが開戦されるが、この大阪夏の陣は家康の策略によって簡単に決着がついてしまう。

今度ばかりは幸村も打つ手が無く、真正面から突撃するほかなかった。まさに決死の覚悟。伊達政宗を相手に勝利すると、勢いを止めることなく1万5000人が取り囲む家康を目掛けて突き進んだ。


画像:真田幸村公像(上田駅)

幸村は一心不乱に刀を振り回し次々と兵たちを斬って前進する。鬼のような幸村の姿を見た家康は「死を覚悟した」という逸話もあるくらいだ。

しかし、さすがに真田軍は力尽きてしまい、幸村も戦死する。49歳の夏だった。徳川軍の圧勝で大阪夏の陣は幕を閉じ、これにて豊臣家は滅亡した。

この時、幸村の勇猛果敢な戦いっぷりに感銘を受けた徳川軍の島津家久は、幸村の家族に向けて手紙を出している。

― 真田日本一の兵。古よりの物語にもこれなき由 ―
(さなだ にひんいちのつわもの。いにしえよりのものがたりにも これなきよし)

「真田の兵は勇敢さも強さも日本一であった。昔から伝わる物語にすら真田の兵に匹敵する強者どもはいない」と、幸村と真田軍の兵士たちを称えたのであった。

幼い頃から父親の強さに憧れ、戦うことが好きだった幸村。戦国という命懸けの時代にロマンを求めていた幸村は、武士の情熱を最期まで貫き通した情熱家だったことが分かる。

自分が「こう」と決めたことに対して真っ直ぐに取り組む姿勢は、A型ならではの「熱意」「情熱」があってこそ実現できたことなのかもしれない。

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