「大坂の陣」までの経緯
画像:戦前の大阪城天守閣(大阪府立図書館)
巧みな罠を張り巡らせ見事に勝利した昌幸と幸村でしたが、関ケ原の合戦で家康が勝利すると反逆者として死刑を言い渡されます。しかし、信幸が家康に懇願したおかげで死刑は免れました。
和歌山の九度山で幽閉(終身刑)となり、昌幸は幽閉中に他界。幸村は14年間、九度山で幽閉生活を送るのでした。これは余談ですが、幸村は焼酎が好きだったようで、信之の家臣・河原左京に「焼酎を用意してほしい」と獄中から手紙を出しています。
壺に焼酎を入れて下さるようお頼み申します。その際は、酒を入れた壺のフタをよく閉めて、そのフタを紙で覆って目張りして下さい。これと同じものを2壺お願いします。もし余分にあったら、それも頂戴したいと思います。
六月廿三日 左京殿 真好白信繁
そんな中、世の中は大きく変わろうとしていました。豊臣家の跡を継いだ秀頼と家康が二条城で会見を行い、これをきっかけに豊臣家と徳川家が本格的な険悪ムードになっていくのです。参考:高野山霊宝館展示の「幸村が左京に出した直筆の手紙」を私訳
豊臣勢には関ケ原で西軍に加勢した武家のなかには豊臣家の復活を願っている者もおり、大阪城に集まって不穏な動きを見せていました。本音をいえば、家康は豊臣家の存在が目障りだったに違いないでしょう。
加藤清正の仲介により家康と秀頼は二条城で会見し、このとき家康は秀頼に3つの要求を提示します。
- 駿府と江戸への参勤
- 淀殿(秀頼の母)の江戸詰め
- 大坂城から出ていく
いずれか一つを承諾すればOKだったのですが、秀頼は全力で拒否。
清正は秀吉に育てられたも同然の武将でしたし、両者が不仲になることで豊臣家が悲惨な結末になるのを防ぎたかったというのが通説ですが、清正の願いは届かず皮肉にも「大坂の陣」を誘発する発端になってしまいました。
さらに、大坂の陣の勃発を決定づける大事件が起きます。
方広寺鐘銘事件
画像:方広寺「国家安康君臣豊楽」の釣鐘
豊臣家がリフォームした方広寺の釣鐘に「国家安康」「君臣豊楽」と書かれており、この文字が「家康を倒せば国が安泰する」「豊臣家を繁栄させよう」という意味があると勝手に解釈した家康は秀頼を問い詰めました。
「おい秀頼、方広寺の鐘に書いた文字は挑発か?」
「家康さん、国が繁栄しますようにって意味だよ」
「いや、あれは豊臣家バンザイ、家康クタバレという意味だろ」
「なに言ってんの。てかさ、俺を潰したいのが見え見えなんだよ」
「おい小僧、俺を怒らせたいのか?許してやるから釣鐘を処分しなさい」
「違うって言ってるんだから捨てる必要ないじゃん」
「やっぱりナメとるな。死ぬ覚悟で言ってるのか?」
「僕は天皇から関白の職を与えられているんですよ」
「だから、なんだ?俺も征夷大将軍だぞ」
「あっ、そうでしたね」
「おい、小僧。マジで潰すぞ」
「じゃ、合戦の準備しときますね」
かなり脚色していますが、それくらい険悪だったということ。さらに、一説によると、家康は青年へと成長した秀頼(このとき19歳)を見て"脅威を感じた"と言われています。
豊臣家を慕う武将たちがいる中、自分が死んだ後に「また関ヶ原の戦い」のような歴史を繰り返すのではないか、と不安になったわけです。ならば、自分が生きているうちに徳川の脅威となる要素は潰しておこう・・・と。
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真田氏のプライドを懸けて挑んだ真田幸村「大坂の陣」(後編)
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