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関ヶ原に散った「大谷吉継」が選んだ石田三成と平塚為広との友情物語

関ケ原に散った友。最後の戦いで「大谷吉継」が選んだ三成と平塚との友情物語

画像:石田多加幸氏所蔵「大谷吉継の肖像」(CG日本史シリーズ・決戦!関ヶ原より)

大谷吉継は「武士の子として近江(滋賀)に生まれた」とされているが不明な点も多く、出生については定かではない。19歳で豊臣家に仕えるが、秀吉の死後、徳川家に仕えた。

吉継の生涯において関わりの深い人物が石田三成である。二人の関係は”盟友”と称され、吉継は家康の家臣であったにもかかわらず、関ヶ原の戦いでは主君の徳川家と戦っているのだ。

そこには三成との友情を物語る”絆”が背景にある。また、二人が盟友と呼ばれるようになった逸話もある。今回は、その2つのエピソードを紹介しながら大谷吉継の人物像を探ってみよう。

三成の思いやり

画像:石田三成之肖像(東京大学史料編纂)

吉継は19歳で豊臣家に仕え、そして、三成と出会う。

(三成の口利きで秀吉の雑用係から始まった、という説もある)

互いに同じ故郷ということもあり、打ち解けるまでに時間はかからなかった。ある日、秀吉は家臣を城に招いて茶会を催す。全国から大名や武家が集まり、吉継も招待を受け、三成と出席している。

だが、あまり乗り気ではなかった。吉継は25歳~27歳の頃、病気(ハンセン病もしくは梅毒、糖尿病による眼病と皮膚病の合併症という説もある。ただし、この時代では診断されていない)を患う。

病状は悪化し、頭巾をかぶり、顔を隠して生活していた。白い頭巾で頭から顔を覆い隠し、手や足を白い布で巻きつけ素肌を見せないようにしていたのである。

そのような姿で知名な大名や有力な武将たちが一堂に集まる場に参加するのに抵抗があったのだ。

茶会が始まると吉継の前に茶の入った茶碗が回ってくる。当時の作法として、一口だけ飲んで隣の人へ茶碗を渡すのが大人数の茶会ではポピュラーな方法だった。

吉継が茶碗に口を近づけた瞬間、顔から出た汁が一滴、茶碗の中に落ちてしまう。その光景を見た出席者の全員が吉継に冷たい視線を注ぐ。吉継は、悔しさで震える体を抑えた。

しかし、三成だけは違った。三成は、吉継の前に置かれた茶碗を手に取り、残らず全て飲み干してしたのである。二人は若い頃から同じ釜の飯を食った仲、三成は吉継の性格を知っている。

その場から直ぐに出ていきたかっただろう。けれど、秀吉の茶会で無礼なことはできぬ。辱めを受けているような冷たい視線に耐えていた吉継の心情を察し、三成なりに考えた思いやりだったのだろう。

この話は後世に作られた美談と言われているが、それほど二人の仲は強かったのではないだろうか。

友よ、考え直せ

画像:徳川家康肖像(国立国会図書館)

秀吉の死後、家康の天下は目前だった。豊臣家の実質的なナンバー2だった前田利家も病死し、口うるさく説教してくる同世代の武将はいなくなった。

信長、秀吉・・・とくれば、順番的に次の天下は俺だろ?と言わんばかりの動向を家康は見せ始める。そんな矢先、吉継は家康から会津(福島)への出陣を命じられた。

上杉家の直江兼続が家康に向けた「直江状(1600年)」が発端となり、腹を立てた家康が上杉討伐を決行したのである。これは上杉から徳川に対する挑発と捉えられ、吉継にも参陣の指示が出された。

吉継は、これに従い1000人の兵を連れて出発した。途中、岐阜の垂井で吉継は立ち止まる。三成に福島行きを伝えようと佐和山に使者を出すためだった。

家康と三成が不仲であったことは周知の事実。そこで吉継は、三成を上杉征伐に同行させて家康と仲直りする機会をつくろうと考えたのだ。しかし、事態は思わぬ方向へと転換する。

これに対して三成からの返事は、「命を懸けた大事な話があるから私のところに来て欲しい」とのこと。吉継は福島行きを中断し、佐和山へと向かい三成と会う。

佐和山に着いた吉継は、家康の討伐を計画していることを三成から聞かされる。「直江状の一件にも関わっている」ことを知った吉継は猛反対。三成を説得したが、時すでに遅し。

「三成、相手が悪すぎる。計画が順調でも実戦では思い通りにいかない」

「友よ、すでに動いているのだ。もう止められないし、止める気もない」

「ならば考え直せ。加担している武将を集めて家康に頭を下げればいいじゃないか」

「それはできない。今のうちにとめておかなければ家康は確実に秀頼様の命を狙うだろう」

押し問答は一日中続き、とうとう結論を出すことなく吉継は自分の城に戻った。もしかしたら家康に話すかもしれない、それでも三成は友である吉継に打ち明けている。

三成と密談したあと、吉継は敦賀城(自分の城)に戻って頭を抱える。家康に従って上杉討伐に行くか、それとも三成の説得を続けるか。そして、吉継には、もう一つの選択肢があった。

三成と共に家康を討つ、という無謀な選択。それから3日間、吉継は三成に手紙を出して必死の説得を続けたが、三成の返事は「友よ、一緒に家康を討とう」の一点張りだった。

三成に協力するということは大谷家の存続に関わる大問題。主君の家康を裏切ることになり、大谷家には汚名がきせられ、残された者たちを苦境に立たせてしまう。

家族や家来の命と引き換えにしてでも三成と共に戦うべきか、一族や家来の将来を一番に考え家康に従うべきか、吉継にとって究極の選択だったのだ。

そして、垂井に戻って4日目の朝、ついに吉継は決心する。佐和山へ行き、再び三成と対面した。吉継が出した答えは「共に戦う」だった。この時点で吉継は、おそらく負け戦と分かってていただろう。

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