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戦国時代でスカウトしたい「山中鹿之助」

鹿之助、捕まる

戦国時代でスカウトしたい「山中鹿之助」
画像:毛利元就の肖像(毛利博物館)

集まった尼子の旧家臣や配下は3000人を超えており、出雲に出陣する機会を待っていると、しばらくして好機が訪れます。1569年、元就が大友宗麟と戦うために九州へ進軍したんです。

毛利軍が中国地方を抜けた頃を見計らい、出雲に入ると各地で勝利を重ねて徐々に勢力を強めていき、ついに月山富田城を攻囲。元就にやられた手段と同じ兵糧攻めを仕掛けます。

さらに一方では尼子の旧家臣が岩見の城を何ヵ所か落とし、気づけば再興軍は6000人を超えました。再興軍に感化された大内家の旧家臣ら(同じく毛利に滅ぼされていた)も大内再興のために周防(山口県東南部)で挙兵。

出雲と周防の2国で反乱が起きている報告を受けた元就は九州の侵攻を中断し、毛利輝元(跡取りで孫)、吉川元春(次男)、小早川隆景(三男)に再興軍の対処を命じ、大内軍の鎮圧に成功。

その後、毛利軍は尼子家の再興軍の鎮圧に向けて出雲へ進軍しました。月山富田城に攻めている最中だった鹿之助は、毛利軍を防ぐために布部山(島根県安来市)に再興軍を向かわせましたが敗北。

毛利軍は富田城に到着し、尼子家の再興軍は一気に形勢が不利な状況となり撤退。このとき鹿之助は殿(しんがり)を務め、居城である末次城へと帰還しました。

出雲の奪還が失敗したとはいえ、まだチャンスは残っていました。元就は1560年の初め頃から体調を崩しており、死期が近づいていました。今回の戦いで尼子家の再興軍は島根県の要所を取り戻し、海路も確保していました。

つまり、収穫はあったんです。しかし、海上から攻めようものなら毛利の水軍が凄まじい勢いで抵抗して形勢は悪化。それを皮切りに次々と再興軍の拠点が攻め落とされていき、挙句の果てに鹿之助は吉川元春に捕まってしまいます。

一度は捕まるも隙をついて脱出し、鹿之助は尼子勝久が潜伏している隠岐(香川県)に逃亡。潜伏中に但馬(兵庫県北部)へ行き、加勢してくれそうな武将や地侍などと連絡を取り合って再び挙兵の機会を待っていました。

信長にヘルプを求める

戦国時代でスカウトしたい「山中鹿之助」
画像:織田信長の肖像(愛知県長興寺)

元就が他界した2年後(1573年)に鹿之助は動き出します。但馬から因幡(鳥取県東部)に侵攻し、桐山城(鳥取県岩美郡)を落として新たに結成した再興軍の拠点にしました。

そして、またしても月山富田城の奪還を目指すのです。再興軍1000人は5000の兵が守る鳥取城に攻め入り、わずか2ヵ月で落城させます。しかし、すぐさま毛利軍に奪い返され、また奪い返すという強奪戦でした。

一心不乱に尼子家の再興に力を注いでいた鹿之助でしたが、すでに中国地方は毛利家の支配下になっている状況で、そうなると周りから見れば再興軍は反乱者または一揆衆のような立場。

この時点で毛利家に敵対しようと考える者は中国地方におらず、当然ながら再興軍は孤立します。再び挙兵してから3年後の1576年5月、出雲を取り戻すことができず再興軍の戦いは敗北に終わりました。

それでも諦めない鹿之助は、織田信長に協力を求めました。この頃、信長は石山本願寺の一揆衆と敵対しており、本願寺に加勢していた毛利軍も敵。

そうした背景を考慮し、鹿之助は京都の二条屋敷で信長と会い、ことの成り行きと目的を話して協力を求めます。信長は鹿之助を「お前は勇敢で忠義者だな」と誉め、四十里鹿毛という駿馬を与えました。

しばらく京都の屋敷で客人の扱いを受け、信長の中国攻めの一環として協力してもらうことになりました。

そして、織田軍の中国攻めが始まると、鹿之助が率いる再興軍は播磨の上月城(兵庫県南西部)を拠点にしますが2ヶ月後には毛利軍3万人に包囲され、織田の家臣・羽柴(豊臣)秀吉の部隊が救援に来るのを待ちました。

しかし、秀吉は救援に向かう途中、信長から「上月には向かわず神吉城(兵庫県加古川市)の援護に向かえ」と指示を受け、上月城は見捨てられるという結果に・・・。

上月城の兵量は尽き、逃亡者が相次ぎ、もはや機能しなくなった状況に尼子勝久は降伏を決意し、鹿之助も従います。元就は降伏を認めますが、条件を出しました。散々、手を焼かされたので黙って降伏させるわけがありません。

鹿之助の最期

戦国時代でスカウトしたい「山中鹿之助」
画像:山中鹿之助の銅像(富田城跡)

条件は、尼子勝久と弟の助四郎が切腹し、鹿之介と立原久綱(鹿之助と同様に再興軍の主犯格)は人質として毛利家にくること。

鹿之助が元春と隆景に勝久の助命を懇願すると、元春から「勝久と助四郎が自害すれば残りは助けるが、断れば皆が死ぬ」と白黒の選択を迫られます。

これに勝久は「もういいのだ。今までありがとう。私が死んで皆が助かるなら光栄だ。それと、毛利の息子たちは優秀だから敵討ちなど考えるなよ。願わくば、お前は長く生きて尼子家の再興を目指してほしい」と言い、切腹したそうです。

人質になった鹿之助は毛利輝元が陣を構える備中松山城(岡山県高梁市)に連行される予定でしたが、道中で毛利の家臣・福間元明に暗殺されてしまいます。

結果的に主君の後を追って他界した鹿之助。最期まで尼子家の再興を夢見て戦い続けた男は、34歳(一説によると39歳)という若さで短い生涯に幕を閉じました。

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