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信長公記・首巻その1 「織田信秀の時代」

信長公記・首巻その1 「織田信秀の時代」


画像:織田信秀の木造(万松寺)

尾張国について

尾張国(愛知県の西部。東部は三河国)は八つの郡で成り立っていた。尾張国の上部・四郡は織田伊勢守家(織田信安との跡を信賢が継ぐ)が支配し、その居城は岩倉。

下部・四郡は織田大和守家(織田達勝との跡を信友が継ぐ。清洲織田家のこと)が支配し、清洲城に武衛(斯波義敦の跡を義統が継ぐ)を住まわせていた。

織田大和(清洲織田家)は織田因幡守、織田藤左衛門家、織田弾正忠家の三奉行を従え、この清洲三奉行が沙汰(領内の統治)を任せられていた。

織田弾正忠家(信長の家系)は勝幡(愛知県愛西市と稲沢市の境目)に居城を構えていた。織田弾正忠家の当主は良信から信定へと続き、現在(1527年)は信秀(信長の父)が主で、その弟に信康、信光、信実、信次がいた。

先祖代々、武功の家柄だったが、なかでも信秀は武術に秀でており、調略的な面もあった。

信秀は那古野に移り、ここを本拠とした。このとき嫡男(実子で長男)の織田吉法師(信長の幼名)には林秀貞、平手政秀、青山信昌、内藤勝介の4名を教育係として付けた。

平手は城の賄方(食事の用意をする人)も兼務したが、那古野では諸事不便があったので信秀は那古野を吉法師に譲り、熱田近くの古渡(名古屋市中区)に新しく城を築いて移った。賄方は山田弥右衛門が務めた。

信秀は今川、松平との勢力争いに備えて少しずつ東へ拠点を移している。

小豆坂の合戦

1542年9月(天文11年8月)、駿河衆が三河国の田原(田原市)へ進出して七段に陣を構えていた。当時、三河安祥(愛知県安城市)は織田方の城であった。

駿河勢は由原衆を先鋒にして小豆坂まで兵を繰り出してきた。信秀は安祥から矢作に出て、家臣の織田信康、織田信光、織田信実らの織田一門衆を主力として小豆坂で合戦に挑んだ。

信秀、信康、信光、信実は勇戦し、織田信房は奮闘の末に敵の槍にて傷を負った。内藤勝介は敵の名高い武者を討ち取って功名を挙げたが、清洲衆の那古野弥五郎は討死にした。

そのほか佐々隼人正(佐々政次と思われる)、山口左馬助(山口教継)らの強者が、何度となく突撃して手柄を立てた。駿河勢は由原衆が那古野を討ち取ったが、織田一門衆の勢いには及ばなかった。

吉法師(信長)の元服

画像:紅筋(ヤマユリの別名)

1546年、今年で吉法師は13歳になり、林、平手、青山、内藤らが付き添って古渡城で元服を行った。このとき、織田三郎信長へと名を改めた。祝いの宴や祝儀の品物は豪勢だった。

信長の初陣は1547年。世話役に平手を従え、f(ヤマユリ)の柄が入った頭巾に馬乗羽織、馬鎧を装備して出陣した。

初陣は三河の吉良大浜(愛知県西尾市吉良町)だったが、自ら指揮を執って戦い、いたるところに放火し、その日は野陣を張って翌日に那古野へ帰還した。

美濃への出陣

1547年(天文16年)の信秀は、先月に国中の兵を引き連れて美濃(岐阜)へ出陣したと思えば、また今月には三河へも兵を出し、とても忙しい主である。

9月3日、信秀は尾張勢を率いて美濃へ出陣し、放火と野戦を繰り返し、22日には斎藤道三の居城・稲葉山城の城下や村々を焼き払い、ついに町口まで侵入した。

夕方になると信秀は軍勢を引き下げようとしたが、道三の軍が押し寄せ、尾張勢も奮戦したが総崩れとなり、信秀の弟・信康をはじめ大勢の(5000人とも言われる)兵が討死にした。多くの兵の魂は織田塚に葬られ、弔った。

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