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信長公記・首巻その1 「織田信秀の時代」

景清太刀について

美濃の大垣城には、織田因幡守が城主として入っていた。道三は9月22日の合戦に勝利し、尾張勢の足腰立たぬ間に大垣城を奪うために近江勢の加勢を得て11月の上旬(または10月下旬)に大垣へと攻め寄せた。

このとき、前述の合戦で討死した尾張の千秋紀伊守が所持していた景清太刀(景清あざ丸刀)は、斎藤家の家臣・陰山一景の手に渡っていた。そして、陰山は大垣攻めで景清太刀を腰に差して出陣していた。

陰山が牛屋山大日寺に陣を張って腰掛けていたとき、大垣城から矢が降り注ぎ、その一本が陰山の左目に刺さった。急いで矢を引き抜いたが、間髪入れずに今度は右目を潰してしまった。

その後、景清太刀は回り周って丹羽長秀に渡った。景清太刀を所有した長秀は眼病を患ってしまい、景清太刀には眼に災いをもたらす噂があることを後になって長秀は知った。

長秀が熱田神宮(名古屋市熱田区)に景清太刀を納めると、眼が嘘のように回復したという。

大垣への援軍


画像:斎藤道三の肖像(常在寺)

道三の大垣攻めに備えて信秀は木曽川を越え、大垣と稲葉山の間から美濃へ入り、茜部(岐阜県茜部)の斎藤軍を攻撃した。道三は驚き、稲葉山城に引き上げていった。

しかし、信秀が大垣に侵攻している最中、織田大和守家(織田信友の軍勢。清洲衆とも言う)が古渡城に攻め寄せ、古渡の城下に放火し、敵対行為をとったのである。

信秀は直ちに帰還して清洲衆に対して戦闘態勢に入った。その後、平手政秀と信友の家臣・坂井大膳で数度にわたって和平交渉が行われたが最初は折り合いがつかなかったが、やがて講和が成立した。

15歳の信長

1548年(天文17年)、平手の働きによって信長は道三の娘(濃姫または帰蝶)と祝言を挙げた。

この頃の信長は朝から夕方まで馬を調教し、3月から9月までは川で泳ぎ、水泳が達者であった。

また、竹槍を使った模擬戦を観る機会があり、このときに槍は短いと役に立たないと考え、自軍の槍を三間柄~三間間中柄(5.4m~6.3m)の長さに改良した。

信長は湯帷子(入浴の際に着用されていた和服の一種)の袖を切り外し、半袴(脚の長さほどに仕立てた袴)を履き、火打ち袋(火打ち道具を入れる袋)をぶらさげ、髪は茶筅のように結い、赤や黄の糸で結び、刀も朱色の鞘を用いていた。

弓は市川大介から学び、橋本一巴には鉄砲を、平田三位からは兵法を学んで、暇があれば鷹狩に出かけた。

とにかく行儀が悪く、町では人目も気にせず柿や瓜をかじって、餅を好み、人に寄りかかったり肩にぶら下がって歩いていた。この姿や格好を見た人々は、信長を「うつけ(常識はずれ)」と呼んでいた。

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