注目の記事ピックアップ!

信長公記・首巻その10 「尾張統一の完成」

清洲城から小牧城へ


画像:小牧城(愛知県小牧市堀の内)

1563年(永禄6年)の信長は清洲城(1555年に織田信友を追放した)を居城としており、清州の城下は大いに栄えていた。

ある日のこと、信長は突然に全ての家臣を引き連れて犬山(愛知県犬山市)の二之宮山に登り、「ここに城を築く」と高らかに言った。

そして、家臣らにも移住を命じ、その場で各家臣らの屋敷(予定地)も決めてしまった。これを聞いた家臣らは混乱し、住み慣れた清洲を出ていって二之宮の山中に移るのは心苦しかったのである。

また、清州の城下に住む町人にも迷惑な話であり、それからというもの不満をもらす者が増えた。また、ある日、信長は「二之宮ではなく小牧に決めた」と言い、本拠地を小牧山(愛知県小牧市)に変更した。

清洲から小牧へは川が続いており、人や馬、道具の移動がしやすく、家臣や町人が不満を漏らすことはなかった。信長の急な思い付きで変更になったと思いきや、実は、変更したのは信長の作戦だった。

先に嫌がるような提示(難所の二之宮)をして、それよりも良い条件を提示(移動しやすい小牧)することで相手の不満を抑え、結果(清洲から移動)に導いたのである。まさに、信長の人心掌握と言える。

さらに、信長の目的は他にもあった。小牧から於久地城へは2キロほどで、小牧城の完成が間近になると信清の軍勢は於久地城を捨て犬山城へと撤退した。これにより、信清の配下の軍勢は全て犬山城に集まったことになる。

犬山を攻撃すれば一気に信清を壊滅できると考えたのだ。なお、小牧山城(小牧城)が完成したのは翌年(1564年)で、信長は清洲城から小牧山城へと拠点を移した。

美濃への侵攻準備

犬山から尾張(愛知県の西部)と美濃(岐阜)の境にある木曽川の対岸には斎藤龍興の所領である鵜沼城(岐阜県各務原市)と猿喰城(岐阜県加茂郡坂祝町)があり、信長を悩ませていた。

また、さらに600メートル先の加治田(岐阜県加茂郡富加町)にも斎藤龍興の拠点・加治田城があり、佐藤忠能、佐藤忠康(二人は親子)が入っていた。

1565年8月(永禄8年)、佐藤親子が丹羽長秀を通して「信長の配下につきたい」という申し入れがあった。もちろん、この申し入れのことは龍興は知らない。美濃の内部から内通者を得たいと望んでいた信長にとっては喜ばしいことであり、佐藤親子の使者に金50枚を与えて「この金で兵糧を蓄えよ」と申し入れを快諾した。

犬山城の攻略

1564年9月(永禄7年)、犬山城の当主・織田信清の家臣である和田新介、中嶋豊後守も丹羽長秀の働きによって信長の配下(スパイ)となった。

斎藤親子と和田新介の手引きで犬山へ侵入した信長の軍勢は城下を焼き、二重の鹿垣(竹や枝つきの木で粗く編んだ垣)で犬山城を囲み、丹羽長秀の指揮で包囲戦が展開され、徹底的に攻撃した。

持ちこたえられなくなった信清は城を捨て甲斐国(山梨県)へ逃亡した。この時点をもって、信長の尾張統一は完成し、事実上、織田系譜のトップは織田信長となった。

織田大和守家(清洲織田家。織田信友が当主)に仕える守護の一つであった織田弾正忠家(信秀の跡を継いだ信長が当主)は、信長が幾多の修羅場を乗り越え尾張を統一したことで、尾張織田家として新たな礎を築いたのである。

ページ:
1

2

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • follow us in feedly

関連記事

  1. 信長公記・3巻その2「姉川の合戦」

  2. 信長公記・10巻その2「二条殿の完成」

  3. 信長公記とは?織田信長に関する最も信頼性が高い史料

  4. 信長公記・10巻その4 「播磨攻め」

  5. 信長公記・6巻その4 「刀根坂の合戦」

  6. 信長公記・11巻その5 「荒木村重の謀反」

  7. 信長公記・2巻その2 「伊勢の平定」

  8. 信長公記・9巻その4 「安土城の完成」

  9. 信長公記・8巻その5 「越前の一向一揆(後編)」

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

最近の記事

週間人気記事ランキング

  1. 登録されている記事はございません。

全体人気記事ランキング

おすすめ記事

PAGE TOP