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信長公記・首巻その2 「織田信秀の死と聖徳寺の会見」

信長と道三が聖徳寺で会見


画像:聖徳寺跡(愛知県一宮市冨田字大堀)

5月の半ば、道三から冨田(愛知県一宮市)の聖徳寺にて信長と対面したいと連絡が入った。道三は信長が大うつけであることを噂で聞いたが、「みんなから大うつけと言われているのなら案外、大物かもしれない」と言っていたという。

そして、会見は、信長が本当に世間で言われているような大うつけなのか確かめてみたいという目的からだった。

信長は申し入れを承知し、木曽川を経由して富田に入った。

ちなみに、この冨田という地域は家が700軒ほどある大きな集落で、本願寺から重職を招いており、美濃と尾張の両国から不輸・不入(税の免除や検地などが行われない特権)を得ていた。

ところで、道三という人物は抜け目がない人物として評判であった。会見においても信長を驚かせてやろうとして800人の家臣に肩衣と袴を着せて威厳を見せつけるために堂々たる姿で寺の前に整列させ、その前を信長の行列が通るように準備した。

道三は民家に隠れ、やって来る信長を覗き見しようとした。しかし、やって来た信長の格好と行列を見て道三は驚いた。

信長は茶筅のように見立てた髪で、湯帷子(入浴の際に着用されていた和服の一種)の袖を切り外し、ヒョウ柄の半袴(脚の長さほどに仕立てた袴)を履き、鞘が朱色の長太刀と脇差、7つの瓢箪を腰にぶら下げ、腕には芋縄を巻いていた。

700人余りの兵たちは三間間中(6.3m)の長さがある朱槍500本と弓や鉄砲を500挺ほど掲げていた。

さらに、信長は道三を驚かせた。寺に着いた信長は屏風で囲んだ中で髪を整え、褐色の長袴に着替え、見るに鮮やかな黒塗りの鞘に入った小刀を腰に差し、見事な正装へと早変わりしたのである。

これを見た道三や斎藤家の家臣たちは「日頃の大うつけは周囲を油断させるための仮の姿なのか?」と半信半疑の様子であったが、その視線を振り払いながら信長は本堂へと歩み進んだ。

道三が待つ広間へと行くかと思いきや、縁側の柱に寄りかかって座ってしまった。それを見た斎藤の家臣・春日丹後(春日源之丞)と堀田道空が「早く来てくだされ」と急かした。

しばらくして道三が現れ、道三も知らぬ顔で縁側の柱に座った。道空が「道三ですよ」と信長に声をかけると信長は「そうか」とだけ答え、ようやく広間に入って道三に挨拶した。

湯漬け(現代のお茶漬け)を食べ、酒を酌み交わし、会見は無事に終了した。道三は苦虫を嚙んだような表情で別れの挨拶をし、2キロと200メートルほど一緒に歩いて見送った。

そのとき斎藤家の槍は短く、信長の兵は長槍であった。道三は槍の長さを見比べて、イラついた様子で帰っていった。

その表情を察した斎藤の家臣・猪子兵助が機嫌をとろうとして道三に「信長は大うつけでしたな」と言うと、「いずれ斎藤の家臣は信長の門前に馬を繋ぐことになるだろう(つまり、信長は大うつけではない)」とだけ答えたそうだ。

それ以来、道三の前で信長のことを「うつけ」と呼ぶ者はいなくなったという。

※現在、聖徳寺は愛知県守山区白山と愛知県天白区八事山の二か所に分かれて移されている。会見があった一宮市には聖徳寺跡の石碑が建てられている。

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