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信長公記・首巻その3 「織田家の内部抗争(斯波義統の死)」

安食・成願寺の戦い

織田大和守家(清洲衆)の征伐として、8月16日、柴田勝家(信長の弟・信行の家臣)を先鋒に、我孫子右京亮、藤江九蔵、太田又助、木村源五、芝崎孫三・山田七郎五郎、太田牛一(信長公記の著者)らが山王口(名古屋市中川区山王)を経由して清洲城に出陣した。

また、この戦いには斯波家の家臣で義統から信愛されていた由宇喜一も共に出陣しており、まだ17歳であったが喜一にとっては義統の弔い合戦だったと言える。しかも喜一は甲冑を着用せずに戦った。

清洲衆は山王口から進軍してきた織田弾正忠家(当主は信長)の部隊を安食村(春日井市)で防ごうとしたが成願寺(名古屋市北区)まで後退し、ここでも防げずに清洲城の町口大堀(城郭の一部)まで追い詰められた。

両軍とも兵数は互角だったが、信長勢の勢いは凄まじく清洲衆の河尻左馬丞が討ち取られ、喜一は織田三位を討ち取るという功績を挙げている。

ほかにも雑賀修理、古沢七朗左衛門、浅野久蔵など、坂井大膳に加勢した有力武将が30人余りも討ち取られる結果となり、この合戦の不始末によって大膳は軍事の執行力を失ってしまった。

村木砦の戦い


画像:村木砦跡(愛知県知多郡東浦町森岡取手)

一方、駿河衆(今川義元)は岡崎(愛知県岡崎市)に陣を置き、鴫原城(重原城。愛知県知立市)の山岡伝五郎を攻め滅ぼしたのち、緒川城(愛知県知多郡東浦町)の水野金吾(水野忠分)を挑発した。

義元は緒川城の攻略に向けて村木(愛知県知多郡東浦町)に砦を築き、信長の配下であった寺本城の城主・花井氏を寝返らせ、花井氏は義元の指示に従って那古野城と緒川城をつなぐ道を塞いで信長の軍勢を足止めした。

信長は出陣するにあたり、留守中に清洲衆(織田信友)が那古野城を襲撃するかもしれないと考え、斎藤道三に援軍を求め、1554年2月19日(天分23年)に道三は斎藤家の家臣・安藤守就に1000人の兵を与えて那古野城に派遣した。

安藤は那古野城の近くに陣を置き、信長は安藤に礼を言ったあと、いよいよ村木に向けて出陣となったとき、織田弾正忠家(当主は信長)の宿老・林佐渡と美作の兄弟が那古野城を離れて荒子城へ移ってしまった。

織田弾正忠家の家老たちは慌てたが信長は「かまうな、うろたえるな」と一喝し、船(水路)にて村木を目指すために出発した。途中、雨が激しく船には乗らず22日は熱田(名古屋市熱田区)にて宿泊する。

翌日も雨と風が強く、「危険だから船は出さないほうがいい」と水夫(船の運転手)は反対したが、先を急ぐ信長は強制的に船を出させ、その日のうちに小河(愛知県知多郡美浜町)へ着いて緒川城の近くで野宿した。

24日は緒川城へ入って水野信元(水野忠分の兄)に会い、周辺や村木の砦について打ち合わせして緒川城に泊まった。翌日の朝、信長は出陣して村木の砦を囲み、砦の南には信長、裏は織田信光、東に水野忠分を配置した。

信長の軍勢は鉄砲隊が散らばって狙撃し、その隙に主戦力が堀を登って砦に侵入するなどして間髪入れずに攻め立てた。 駿河衆は死傷者が相次ぎ、ついに降伏し、夕方には合戦が終わり村木の砦は落城した。

なお、信長は初めて実戦で火縄銃を用いた。26日には花井氏の寺本城と城下を焼き払い、那古野城に帰還した信長は安藤に礼を述べた。

翌日に安藤は美濃(岐阜)へ戻り、稲葉山城(現在の岐阜城)に到着すると斎藤道三に村木攻めの概要を語ったという。それを聞いた道三は、「強い雨風のなか船で渡り1日で砦を落とすとは恐ろしきやつだ。敵じゃなくてよかった」と感心していたそうだ。

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