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信長公記・首巻その9 「織田伊勢守家(岩倉織田)の消滅」

毒を捨てる

尾張国の端の海沿いには、有力な一族である石橋氏の座所(身分の高い人の居室)があった。義銀と吉良は石橋氏と手を組み、信長に対して謀反を企んでいた。さらに、河内(大阪の東部)の服部左京(服部友貞。今川義元の配下)とも手を組んで、海路から駿河衆(今川義元の軍勢)を引き入れようとしていた。義銀は尾張守護職の実権を復活させようとして信長の失脚を企んだのである。

しかし、計画半ばにして信長は策を講じ、義銀、吉良、石橋氏を尾張国から追放した。

浮野の合戦


画像:岩倉城跡(愛知県岩倉市下本町)

1558年8月25日(永禄元年)、信長は岩倉織田家(織田伊勢守家)の当主・織田信安の息子である織田信賢との戦いに向けて清洲城を出発した。この頃、信賢は信安を追放して上四郡の実権を握っていた。

清洲城から岩倉(愛知県岩倉市)までは3.3キロメートルほどの距離だったが、直進では難所が多かったため、信長は北西の方角へ12キロメートル遠回りし、岩倉の西にある浮野(愛知県一宮市)に陣を構えた。

対する岩倉織田軍も3000の兵を率いて浮野へと進軍し、午刻(昼)に合戦が開始された。序盤から信長の軍勢が圧倒し、岩倉の軍勢を追い崩す。もはや岩倉織田軍は壊乱し、逃げまどう兵らを信長の軍勢が次々と討ち取った。

岩倉織田の家臣には浅野(現在の愛知県岩倉市・浅野公園あたり)の生まれで林弥七郎という弓の達人がいた。

信長の家来で鉄砲の名手である橋本一巴は、敗走する弥七郎に「お前とは旧知の仲だが助けてやることはできない。ならば、いっそのこと勝負しよう」と声をかけた。二人は個人的に交友があり、とても親しかったのだ。

弥七郎は「そうだな。勝負しよう」と言い、追撃してくる一巴のほうを振り返って矢を放った。すると矢は一巴の脇腹に刺さり、負けじと一巴も2発の銃弾を放った。

これが命中し、弥七郎は転がり倒れた。そこに信長の家来で佐脇藤八という小姓が手柄を立てようと弥七郎に襲い掛かる。弥八郎は倒れながらも刀を抜いて抗戦したが、身動きがとれないまま討ち取られてしまった。

首実験に並べられた首の数は1250を超えており、浮野の合戦は信長の勝利で終わった。

岩倉城の戦い

浮野の合戦から翌年、信長は織田伊勢守家の拠点で信賢の居城である岩倉城に攻め寄せた。

1559年4月(永禄2年)、信長は信賢が立て籠もる岩倉城を攻撃し、城下を焼き、城の四方を鹿垣(竹や枝つきの木で粗く編んだ垣)で囲んで長期戦に備える。

2~3ヵ月の間、信長の軍勢は連日のように城内へ火矢や鉄砲を打ち込み、対抗する術が無くなった信賢は降伏した。岩倉織田の兵たちは逃亡し、すぐに城は壊された。これにより信賢は尾張の国外へ追放された。

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