愛する妻の死
画像:細川忠興と細川ガラシャの銅像(勝竜寺城跡)
忠興は秀吉の家臣として小牧長久手の戦いや九州征伐、小田原城攻めや朝鮮出兵など多くの合戦に従軍。忠興の戦歴に関する詳しい史料は少ないですが、加藤清正や福島正則らと同様に武功を挙げていたことは確かなようです。
そして、長らく仕えた主君の秀吉も他界。死後、忠興は家康に仕える道を選び、三成と敵対関係を強めていきました。1599年には清正や正則らと共に三成を襲撃しますが失敗。
翌年には家康と三成の関係が悪化し、ついに関ヶ原の戦いへカウントダウンが始まります。三成は家康との戦いに備え、仲間を増やすために武将らの身内を人質にとり、従わせようとします。
そして、忠興の妻・ガラシャも捕まりそうになっていました。忠興の不在を見計らって三成はガラシャの誘拐を試みましたが、ガラシャは激しくこ抵抗し、人質になって忠興に迷惑をかけるくらいなら潔く死んだほうがマシと自害したのです。
このとき、ガラシャが遺した「散りぬべき時知りてこそ世の中の花も花なれ人も人なれ (花も人も散る時を心得てこそ美し)」という辞世の句は有名です。
ただし、ガラシャはキリスト教の洗礼を受けていたので自殺は許されず、細川家の小笠原秀清に命じて自分の胸を槍で貫かせ死んでいます。その頃、忠興は上杉征伐に向けて会津へ進軍中でした。
晩年は文化人として過ごす
画像:細川忠興の陣所跡(関ケ原古戦場)
やがて関ヶ原の戦いが勃発し、本戦となる岐阜県不破(関ケ原)に出陣した忠興は「絶対に三成は俺が殺す!」と激しい増悪を抱き、5000余りの兵を率いて三成の本陣を目掛け突撃。
関ヶ原の戦いで大健闘した忠興は豊前小倉に39万石を与えられ、江戸時代には豊前小倉藩の初代藩主として徳川幕府を支え、1632年に52万石を拝領し、肥後細川家の初代となりました。
短気で酒が入ると乱暴になることで有名な忠興でしたが、晩年は書や絵画、和歌や茶道などに精通する文化人でもあり、「細川三斎茶書」という文献を書き残しています。
また、千利休に最も可愛がられた弟子として利休七哲(利休の弟子の中で特に優れた7人)の一人に数えられる茶人でもあり、秀吉が催した北野大茶湯の際には松向庵という名の茶席を設け、大名らに茶を振る舞った経歴もあります。
これといって目立った武功や美談がない忠興ですが、武将から藩主にかけての生涯をトータルすると、やはり有能な人物であったことは間違いないでしょう。複雑な家族関係を考えても、いろんな意味で苦労した武将だと思います。