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【終戦記念日に歴史を振り返る】なぜ日本はアメリカと戦争したのか?「太平洋戦争」が起きた理由とは?

大東亜会議とは


画像:大東亜会議(毎日新聞社「昭和史第11巻 破局への道」)

アメリカ軍は、まず日本軍が占領した島の中から日本に近づくための上陸地点を選び、集中的に攻撃を浴びせ、これらの島に日本軍は救援を出すことができず、補給が絶たれ、餓死者を出す状態になる。

こうしたアメリカ軍の作戦が日本軍が上陸している島々で開始され、その結果、救援も来ない孤島に取り残されて戦死する日本兵が相次いだ。

この状況に焦った日本政府は1943年 11月にビルマやフィリピンなど日本軍と親交のある国の代表を東京に招集して「大東亜会議」を開いた。

大東亜会議とは40代目の内閣総理大臣・東條英機が主導となり、大東亜共栄圏を確立する目的で1943年11月5日~6日に開かれた会議である。

中華民国(南京)の汪兆銘、満州国の張景恵、フィリピン共和国のホセ・ラウレル、ビルマ国のバー・モウ、タイ王国のワンワイタヤーコーン、自由インド仮政府のチャンドラ・ボースらを招集した。

会議では「共存共栄や親和、互いの利益や経済発展、人種差別の撤廃」などを話し合ったが、実際のところ戦争への協力体制を求めるのが目的であったと考えられる。

つまり、これら日本と親しい国を「大東亜共栄圏」として協力関係を明確にしたかったのである。

しかし、日本軍の戦況が思わしくないことを知っている国やアメリカやイギリスとの関係をもつ国もあり、大東亜共栄圏は現実味を帯びなかった。

無条件降伏により終戦

1944年6月に日本海軍はサイパンの死守を目的に「あ号作戦」を開始したが、マリアナ沖の海戦で日本の機動部隊や攻撃機はアメリカ軍に猛攻され致命的なダメージを受ける。


画像:マリアナ沖海戦にて攻撃を受ける空母・瑞鶴および2隻の駆逐艦(戦後-太平洋戦争の歴史)

アメリカ軍のサイパン上陸によって、日本の守備隊や民間人は壊滅。以後、日本軍の排除は戦場のいたるところで繰り返された。

11月に始まったレイテ沖の海戦で日本軍は空母4隻、戦艦、巡洋艦など多くを失い、これによって戦闘が可能な戦艦と空軍は消滅する。

この頃から特攻作戦 (神風特攻隊 ) が強行されるようになり、1945年2月~4月の硫黄島、沖縄での戦闘は特攻が中心の戦いとなっている。こうなると、負け戦になることは政府の幹部は予想していただろう。

1945年7月にポツダム会議が開かれ、トルーマン、チャーチル、蒋介石の連名により日本軍に無条件降伏を求める「ポツダム宣言」が提示されたが、日本政府はこれを拒否。

そして、とどめを刺すかのようにアメリカ軍は8月に入って広島と長崎に原子爆弾を投下。さらに、ソ連も日本に攻撃を仕掛ける動きがあり、もはや打つ手がなくなった日本政府はポツダム宣言を受け入れた。

9月2日、東京湾に停泊するミズーリ号の上で「降伏文書への調印」が行なわれ、3年9ヵ月にわたり繰り広げられた太平洋戦争は日本の無条件降伏という結果で終結したのである。

参考:太平洋戦争(ブリタニカ国際大百科事典)

なぜ太平洋戦争は起きたのか?


画像:PhoM3c. Robert M

第一次世界大戦に敗北したドイツはファシズム(独裁政治によって軍事力を強化し、海外進出を狙う)に走っていた。ドイツのナチス党のヒトラーは1939年にポーランドに侵攻。

当時、ポーランドと同盟を結んでいたイギリス、フランスがドイツと対立する。これを機に、第二次世界大戦が始まるのである。1940年のドイツはイギリスを除く、ヨーロッパ全土を支配下に治めていた。

その頃、日本は中華人民(中国)と戦っていた(日中戦争)。満州国建国で国際的に孤立する理由をつくってしまった日本は、ドイツに便乗して勢力を強める方向で舵を取る。

ドイツと同じくファシズムに走っていたイタリアとも結託し、「日独伊三国軍事同盟」を締結した。

しかし、日本から遠く離れたヨーロッパの2国と軍事同盟を結んでも強力な効果はなく、逆にイギリスを支援するアメリカと対立を深める原因になってしまったのだ。

そして、日本が締結したドイツ・イタリアとの同盟に気分を害したアメリカは、日本に対して経済制裁を申し出るのである。制裁といっても、とてもシンプル。

「そんな意味深な行動をとると石油(燃料)や鉄を日本に輸出しないけどいい?」と弱みを突いてきたのである。中国との戦争中に燃料がなくなるのは日本にとって死活問題。

「石油の一滴は血の一滴」という言葉があるくらい戦争で燃料は勝敗を大きく左右する問題だったのだ。アメリカの怒りを鎮めようと1941年4月にワシントンで交渉を開始。

しかし、その一方で日本の陸軍は石油やゴムなどの資源を求め、ベトナムのサイゴンへ進軍していた。これが、またもやアメリカとの関係を悪化させる原因になる。

サイゴンはアメリカ領土のフィリピンやイギリス領土のシンガポール、イギリスの同盟国であるオランダ領土のインドネシアなど射程圏内で、それらを攻撃するにはピッタリの場所。

この動きに不信感と危機感を抱いたアメリカは日本に対して石油の輸出を全面禁止したのである。さらに、アメリカにいる日本人の資産を凍結した。

同年11月。アメリカ国務長官ハルは最終警告として日本に要求を出す。中国から日本軍を撤兵させること、日独伊の同盟を廃棄すること、中国の満州を満州事変以前の状態に戻すこと、などの条件だった。

日本としては素直に受け入れられる内容ではなく、1941年10月、内閣総理大臣に就任した東条英機はハワイ沖の真珠湾に停滞していたアメリカ海軍を奇襲攻撃した。

真珠湾で休憩中の海軍は日本の奇襲に気づかず、というよりも日本は”こっそり”襲ったようなもので、この奇襲攻撃を宣戦布告とみなしたアメリカは怒り狂って、太平洋戦争が始まったのである。

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