龍馬の暗殺犯は誰だ?
画像:中央に谷干城、右が板垣退助(迅衝隊のとき)
薩摩藩の倒幕派の中心となっていた西郷隆盛に対し、谷は土佐藩の討幕派を束ねる中枢になっていました。薩摩の板垣退助や毛利恭介らと出会い、薩摩藩と土佐藩の間で「薩土密約(1867年)」を締結します。
この密約は、いずれ徳川幕府との戦争が始まったら互いに協力し合い、土佐が幕府に攻撃を仕掛けた際には土佐藩の兵を率いて薩摩藩に合流するという約束でした。薩摩は1866年に長州藩と薩長同盟も結んでいます。
こうして、薩摩・長州・土佐を主体とする新政府軍が倒幕を掲げたわけです。
大政奉還(1687年11月19日)を経て王政復古の大号令(1868年1月3日)が明治天皇のもとで発せられると、いよいよ戊辰戦争(1868年1月26日)が開戦されます。
谷は板垣が指揮する迅衝隊に所属し、軍艦を駆使しながら北関東・会津での戦いで奮闘し、新政府の勝利に貢献しました。徳川幕府を倒し、晴れて明治時代が訪れたわけですが、谷の心境は複雑でした。
なぜなら、大政奉還の直後に龍馬が近江屋(京都)で"何者か"に暗殺されてしまったからです。
攘夷一筋だった価値観を根本から変えてくれた龍馬の死は、谷にとってショッキングな事件だったのでしょう。暗殺後、近江屋で龍馬と一緒に被害に遭った中岡慎太郎のもとを訪ね、犯人に関する情報を聞き出す谷。
しかし、中岡は重傷で瀕死の状態にあり、聴取で確信的な情報が得られなかったのです。それからも谷は情報を集め、何度か現場検証を重ね、考察したうえで疑いを向けたのが新撰組局長の近藤勇でした。
戊辰戦争の最中、新政府軍は下総流山(千葉県流山市)において近藤を捕らえ(自ら出頭したという説もある)、谷は板垣退助らと近藤を尋問したとされています。
しかし、このときの尋問は龍馬暗殺の一件ではなく、勝海舟や大久保一翁など幕臣との関係や戊辰戦争における今後の計画や作戦など情報を探るための尋問だったようです。
応接処ノ縁下二筵ヲ布キ其上二(近藤を)座セシメ督府ノ小軍監(脇田頼三)責問ス 勝沼戦争ノ取正シ |
谷干城の「東征私記」より引用
そして、近藤の処分については薩摩藩と土佐藩で意見が対立し、土佐藩が半ば強引に近藤の処刑を推し進め、1868年5月17日に近藤は江戸の板橋刑場で斬首され、首は京都の三条河原に晒されました。
龍馬暗殺の実行犯だと名乗る男
画像:明治40年頃の谷干城(中央公論新社)
現代でも坂本龍馬の暗殺には様々な説が飛び交っていますが、谷は新撰組が実行犯だと確信していたようですね。ところが、明治33年5月に京都見廻組の一員だった今井信郎が「俺が龍馬を殺した」と名乗りを挙げたのです。
これに対して谷は、猛烈に否定しています。龍馬の剣術の腕前を考えれば今井に討たれるはずがないと反論し、"売名行為"のために今井は自首したのだと主張しました。
たとえば、明治33年5月号の「近畿評論」や明治37年の「史学雑誌80号(坂本龍馬中岡慎太郎遭難始末)」、明治44年「谷干城遺稿(坂本中岡暗殺事件)」などで、谷は今井の供述を全面的に否定しています。
谷は明治44年に他界しましたが、最期まで龍馬暗殺の実行犯について考えていたことがわかります。結局のところ、未だ犯人は不明のまま。はたして、その真相が明かされる日は訪れるのでしょうか。
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