岩屋城の戦い
画像:岩屋城跡
1586年、島津忠長を総大将とする島津の大軍2万(一説によると5万人)が岩屋城を攻囲し、島津氏は紹運に降伏を要求しましたが、断固として降伏に応じませんでした。
岩屋城を守る高橋軍は763人。午後から開始された島津軍の攻撃は高橋軍の激しい抵抗に苦戦し、岩屋城に近づくこともままならず、島津軍は序盤から多くの戦死者を出すこととなります。
忠長は攻撃を中断し、翌日に攻め入りましたが、やはり同様に苦戦を強いられました。そこで忠長は家臣の新納蔵人を使いに出し、紹運に降伏を促すよう命じます。
蔵人は紹運に「そなたの忠義は見事である。しかし、これ以上の抵抗と犠牲は無意味。もはや大友氏は衰退し、民のことを考えるならば降伏してください。忠長は紹運殿のことを高く評価しており、領土(岩屋城と宝満城)の安堵も約束すると申しております」と伝え、降伏を促しました。
紹運は、「一つ、お尋ねする。もし私と同じ状況下に置かれたとき、蔵人殿は己の都合を優先して主君を見限り敵方に寝返るのか?」そう問い質すと、蔵人は言葉に詰まった様子。
それを見た紹運は「主君が強い力を持っているときは文句も言わず働くだろう。だが、衰えたときに忠義を尽くし粉骨砕身してこそ真価が問われる。この義を軽んじれば、武士ならず畜生である」と伝えました。
蔵人は返す言葉もなく、陣に戻って忠長に報告すると、「死なすには惜しい男だ。まさに真の武士である」と感服し、壮厳寺の和尚・快心を岩屋城へ使いに出し、再度、降伏を促します。
紹運の最期
画像:岩屋城跡の入り口
快心は紹運に、「私は降伏を促しに来たのではありません。忠長殿は貴殿のような誉な武人を討つのが心苦しいと申しており、私は和睦の提案を伝えに参ったのです。民や兵のことを考えると無益な戦いは双方にとって好ましくない」と説得。
これに対し紹運は、「大友家は多くの将や兵を失った。この度の戦でも岩屋城に援軍が来ることもないだろう。無駄死にと言われても仕方ないが死すべきときに死すのも武士の運命。遠慮はいらないので心置きなく攻めてきてくれと忠長殿にお伝えください」と返事しました。
これ以上の説得は無理と判断した忠長は、翌朝に総攻撃を開始。島津軍は大軍で一揆に攻め入り、高橋軍は屋中種速が討ち取られ、水の手砦を守っていた村上刑部はじめ全ての兵が戦死。
城兵も次々と討ち取られ、残すは本丸の紹運と数十名の兵のみとなりました。紹運は「よくここまで頑張ってくれた。そろそろ別れの時である」と兵らに伝えたあと切腹にて自害。
高橋軍は誰一人として逃亡や島津軍に降伏することなく最期まで抗戦し、戦死または自害したといいます。
少数にも関わらず紹運が岩屋城で死闘を繰り広げたのは大友氏に対する忠義もありましたが、立花山城に島津軍が攻め入るのを防ぐためとも言われています。
立花山城には息子の統虎(のちの宗茂)が配備しており、援軍が立花山城に到着するまでの時間稼ぎだったという研究家の異見もあるんです。
ただし、島津氏の家老・上井伊勢守が記した文献によると、総攻撃の前日に「紹運から和睦の申し入れがあったが忠長は断った」という記録もあるとか。
そうだとすれば、やはり豊臣の援軍(秀吉は全国制覇に向けて島津氏と対立していた)が到着するまでの時間稼ぎだったのではないかという考えが強まりますね。
紹運の手紙
画像:戦国合戦型カードゲーム・戦国SAI「高橋紹運」©戦国SAI製作委員会
紹運は切腹する際、忠長に向けて書いた手紙を甲冑に差し込んでいたそうです。
その手紙には、
是一途、義に候。了承、奉る (この度の戦は義によって行ったこと、ご理解くだされ) |
と双方の戦死者を弔う一文が記されており、それを見た忠長は紹運の首を前にして地面に膝をつき手を合わせ、「比類なき勇将を失ってしまった。こんな男と乱世を共にしたかった。生まれが違えば良き友になれただろう」と紹運の死を悲しんだとのことです。
最期の最期まで武士道を貫き、主君への忠節を尽くした高橋紹運。紹運のDNAを受け継いだ立花宗茂が秀吉に天下無双と言われるのも納得ですね。
では、最後に紹運に関する男前なエピソードを紹介して終わりにしたいと思います。
紹運の男前な逸話
画像:戦国挽歌「高橋紹運」(西津弘美・著)
戦ばかりの紹運は頻繫に城を留守にしていたため、婚約者が決まっていたけれど予定より結婚が先延ばしになっていました。
そして、戦から帰還後、いざ結婚しようとした矢先、婚約者が天然痘という病にかかって顔に痕(あざ)が残ってしまったんです。
婚約者の家族は紹運に婚約破棄を申し出ましたが、「そのようなことで私の気持ちは変わったりしない。外見ではなく心に惚れているのだから」と言い、その婚約者と予定通り結婚したとのこと。
義に厚いだけでなく深い愛情の持ち主でもある紹運。だいぶ男前な逸話ですね。