合戦の経緯と背景
天文22年9月(1553年)
第一次・川中島の戦い(布施の戦い)
<信玄の成果>
長野盆地への進出(北信濃の掌握に不可欠)は阻止されたが村上氏の本領だった埴科郡を獲得できた。
<謙信の成果>
村上氏の領地を奪還できなかったが北信濃の豪族や武士ら獲得することに成功した。
弘治元年7月(1555年)
第二次・川中島の戦い(犀川の戦い)が開戦。
<信玄の成果>
武田氏、北条氏、今川氏の三者間で三国同盟(甲相駿同盟)を結び、信玄は謙信と敵対していた北条氏と手を組んで謙信の討伐に向けて本格的に動き出す。
謙信の家臣・北条高広を寝返らせ謀反を起こさせたが謙信に鎮圧されて失敗。信濃の豪族である栗田永寿(謙信の配下に下っていた)を寝返らせることに成功し、長野盆地の南半分(善光寺平)を獲得した。
<謙信の成果>
善光寺平を奪還するために出陣。戦いを仕掛けたが信玄は守備を固めるだけで応戦してこなかった。200日ほど対陣したが決着がつかなかった。今川義元の仲介で和睦が成立し、犀川の戦いは終わった。
信玄に対し、謙信は和睦の条件として須田氏、井上氏、島津氏ら北信濃の武将の領地を返還させ、栗田永寿の城であった旭山城を棄却させた。これにより謙信は長野盆地の北半分を確保した。
その後、謙信は善光寺の仏像などを越後に移し、越後において新たに善光寺を創建した。
画像:善光寺平の案内板(姨捨SA)
弘治3年8月(1557年)
第三次・川中島の戦い(上野原の戦い)
<信玄の成果>
和睦後も信玄は北信濃への侵攻を水面下で行い、弘治2年8月に家臣の真田幸隆や小山田虎満らが東条氏(謙信の配下に下っていた)の居城である尼飾城を落とした。
翌年2月、北信濃における謙信の最前線・水内郡の葛山城を落として落合氏(謙信の配下)は滅亡。続いて、高梨政頼(謙信の配下)の居城である飯山城に進軍した。
北条綱成が率いる援軍が関東から到着。7月5日に安積郡の小谷城を落とし、北信濃の川中島(長野市小島田町)に進軍。8月、上杉軍と衝突するが決着はつかず、10月に甲斐(山梨県)へ戻った。
<謙信の成果>
弘治3年4月に長野盆地に着陣。6月までに怒涛の勢いで武田が所領する城を落としていき、7月に尼飾城を攻めたが信玄は戦いを避け、しばらく対陣してのちに謙信は飯山城へ兵を引き揚げた。
8月、川中島に進軍してきた武田軍と衝突するが決着はつかず、9月に越後(山梨県)へ戻った。なお謙信は、この期間中に、第二次・川中島の戦いで信玄から取り戻した旭山城を建て直し、再興している。
永禄4年9月(1561年)
第四次・川中島の戦い(八幡原の戦い)
<信玄の成果>
永禄2年、上田の生島足島神社にて先勝祈願。出家し、武田晴信から武田信玄となる。永禄4年、謙信が小田原城に進軍したことで同盟国の北条氏から援軍の要請があった。
信玄は北信濃に進軍して川中島に海津城を築いて謙信を挑発した。謙信が川中島に進軍していることを知り、信玄も川中島に進軍。計2万人(本隊8000人・別動隊1万2000人)の兵を動員して茶臼山に着陣した。
武田の別動隊が上杉軍の裏をかいて謙信の本隊を奇襲しようとしたが見破られてしまい、反対に信玄の本隊が猛攻撃を受けてしまう。弟の信繫や山本勘助、諸角虎定や初鹿野源五郎など有能な家臣を多く討ち取られてしまった。
しばらくして奇襲に失敗した別動隊が合流し、形勢が逆転した。反撃しようとしたが上杉軍は撤退し、信玄も兵を引き揚げた。八幡原の戦いで戦死した武田の兵は4000人余り。また、多くの負傷者を出した。
画像:妻女山の案内板(川中島古戦場)
<謙信の成果>
永禄2年に上洛し、天皇と将軍に関東管領の就任の許可を得る。関東管領という大義名分を得た謙信は、永禄4年に敵対する北条氏の居城である小田原城(神奈川県)を攻めたが守りが堅く、落とせなかった。
永禄4年、鎌倉で上杉氏の家督を継承し、謙信は長尾景虎から上杉政虎となる。このとき、正式に関東管領に就任。謙信にとって、関東を制圧するために信越(長野県と新潟県)の国境を確保するのは必須だった。
しかし、信玄が川中島に海津城を築いて挑発してきた。信越(長野県と新潟県)の国境を抑えるために邪魔になるのは明確だった。小田原から引き揚げた謙信は越後に戻り、川中島に進軍。
謙信は1万3000人(本隊1万人・3000人は北信濃の善光寺で待機)の兵を動員して妻女山に着陣。
信玄が裏をかいて奇襲を仕掛けようとしてきたが謙信は罠であることを察知し、反対に先回りしてして信玄の本隊に襲い掛かった。信玄の弟・信繫や山本勘助、諸角虎定や初鹿野源五郎など武田の家臣を多く討ち取った。
一気に攻め立てようとしたが武田の別動隊が本隊と合流したことで戦況が不利となり、兵を引き揚げて退却した。この戦いで上杉軍は、指揮官クラスの有力な家臣は戦死していない。
八幡原の戦いで戦死した上杉の兵は3000人余り。武田軍ほどではなかったものの、それでも多くの負傷者を出した。
画像:川中島大合戦図(八幡原史跡公園)
永禄7年8月(1561年)
第五次・川中島の戦い(塩崎の対陣)
<信玄の成果>
飛騨(岐阜県北部)で三木良頼・三木自綱の親子と江馬輝盛が、江馬時盛と対立していた。信玄は江馬時盛を援護するために家臣の山県昌景と甘利信忠を飛騨に向かわせた。
信玄も飛騨入りを考え長野盆地の塩崎城まで進軍したが、三木・江馬輝盛から要請を受けた謙信が川中島に着陣したことで塩崎城で停滞。2か月ほど上杉軍と対陣したが、撤退した。
<謙信の成果>
飛騨(岐阜県北部)で三木良頼・三木自綱の親子と江馬輝盛が江馬時盛と対立していた。謙信は三木・江馬輝盛から要請を受け、信玄の飛騨入りを阻止するために川中島に着陣。
塩崎城まで進軍してきた武田軍と2か月ほど対陣したが、合戦には至らず越後へ兵を引き揚げた。
川中島の戦いは当時では珍しかった大合戦
画像:場取武礼駒「川中島之決戦」 (イラスト:長野剛©バンダイ)
一般的に川中島の戦いといえば、もっとも激戦となった第四次の八幡原の戦いを指す場合が多いです。たとえば、ドラマや映画などでも、ほとんどの場合、八幡原の戦いが題材になっています。
また、当時(1561年以前)としては、川中島の戦いのように計3万人以上の兵が動員されて合戦を行うことはレアなケース。大軍を率いて合戦が行われたのは、本格的に織田信長が天下統一を目指したあたり(1570年頃)から。
川中島の戦いはスケールの大きい合戦だったことが分かります。今回は、川中島の戦いの発端と経緯、勝敗についてザックリ復習しましたが、戦国史を楽しむ参考になれば幸いです。