信長公記・7巻その2 「小笠原信興の謀反」
画像:歌川芳虎・画「小笠原信興」(東京都立図書館)
賀茂の例祭
1574年5月25日(天正2年5月5日)は賀茂の例祭で、競馬(馬を走らせ競い合わせる)を催すにあたって信長
が祈祷を行う日であった。また、例祭に伴い、信長にも馬を出典してほしいとの要請があった。
この要望に応え、信長は幾度の合戦で出馬した芦毛・鹿毛の馬2頭と、騎馬隊の駿馬18頭を出場させた。20頭の馬には鞍(くら)、鐙(あぶみ)、轡(くつわ)を装備し、それらの馬具はいずれも名物と言われるものであった。
さらに、馬を引き連れる近習(世話係)も美しい装束で出席させ、まさに天下の祭事と呼ぶにふさわしい光景であった。
競馬では黒装束の禰宜(ねぎ。神主など神職の一つ)10人と赤装束の禰宜10人が馬にまたがって走り、勝負を競った。信長の芦毛・鹿毛の2頭は、いずれも勝馬となった。
祭事のあと、信長は京都で天下諸色(現代で言うとショッピング)を行い、6月17日に岐阜城へ帰還した。(現代の研究では6月5日とみられている。武田勝頼の侵攻に備えて岐阜へ帰還)
小笠原信興の謀反
6月23日、武田勝頼の軍隊が徳川家康の家臣・小笠原信興の高天神城(静岡県賀茂郡城東村)に進軍したとの報告が信長に届いた。7月2日、援軍のために信長は軍を率いて息子の信忠と岐阜城を出た。
5日、酒井忠次の居城である吉田城(愛知県豊橋市)に入った。ところが、軍を率いて今切(浜名湖)に差し掛かったころ(7月7日)、進軍中の信長に凶報が届く。
高天神城で小笠原信興が謀反を起こし、身内や家臣を城から追い出して武田の軍勢を引き入れてしまったのである。信長は軍を引き返し、吉田城に戻った。
一方、浜松からは織田の同盟である徳川家康も兵を率いて吉田城に駆け付けていた。
徳川家康への贈り物
画像:徳川家康の肖像(大阪城天守閣)
家康は信長に援軍の御礼を述べたが、信長は戦闘に至らなかったことを無念に思っており、その侘びとして黄金の革袋に入った兵糧の支度金2袋を家康に贈った。
届いた黄金の革袋を持ち上げてみると、やっと二人がかりで持ち上げられる重さで、あまりの重さに徳川家の人々は驚いた。あらためて信長の寛容さを思い知り、家康は信長の威光を感じたのであった。
7月9日、信長は信忠をと共に岐阜城へ帰還した。