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明治維新の武闘派集団「奇兵隊」は「長州」でなければ結成されていなかった?


画像:高杉晋作の像Eastern Culture Association( 東洋文化協會)

幕末から明治維新にかけて”倒幕”の中心人物といえば「高杉晋作」を思い浮かべる人も多いだろう。

長州の武士や農民を集めて結成した「奇兵隊」は有名だ。奇兵隊は高杉晋作が周布政之助に提案し、1863年6月に創設した長州藩お抱えの常備軍である。

この奇兵隊だが、なぜ長州で結成されたのだろうか。もちろん、高杉が長州藩の武士ということもあるが、それ以外に「奇兵隊は長州でなければ成立しなかった」と言えるのだ。

つまり、奇兵隊をつくる条件が長州には整っていた。その”条件”とは、ほかの藩では成しえない長州ならではの環境と言えるだろう。そこで今回は、奇兵隊にまつわる興味深い話を紹介したいと思う。

奇兵隊を結成した理由

徳川に敵対していた長州藩は幕府と友好関係にあったフランス・アメリカの艦隊を無通告で砲撃し、海上戦を繰り広げたが撃ち合い(下関戦争)に敗れ、壊滅的なダメージにより存続の危機に陥る。

敗戦後、高杉は「奇を以って虚をつき敵を制する兵をつくりたい(臨機応変に敵の意表を突く兵隊をつくりたい)」と周布に表明し、長州藩主の毛利敬親の許可を得て下関の守備を強化する。

また、奇兵隊は藩士以外の武士・庶民で編成した混合部隊であり、「奇兵」とは正規の武士を意味する「正規兵」の対義語。そのため、藩士と武士のみで編成されていた長州藩の「撰鋒隊」に対する反対語としての意味もある。

奇兵隊の前身は久坂玄瑞が発足した光明寺党と言われており、初期メンバーは15名ほどと記録されている。志願者を募るときは吉田松陰の草莽崛起という考え方に基づき、武士だけでなく農民や町人、漁師や力士など身分を問わず受け入れた。

結果的に武士の出身が5割、農民が4割の構成から成り立っていた。奇兵隊の本部は高杉を支援していた廻船問屋・白石正一郎の屋敷に設けている。

そして、「奇兵隊が長州で結成された」のには理由がある。

なぜ長州で奇兵隊は生まれた?

話は関ケ原の合戦までさかのぼる。戦国時代に長州を仕切っていた毛利家は山陰・山陽に150万石を築いている。しかし、関ヶ原の合戦で徳川家に敵対しため、戦後に全領土を没収される。

幸いにも吉川広家の口利きで長門・周防に40万石を与えられ、毛利家は無一文にならずに済んだ。とはいえ、領土が3分の1以下になってしまったのは事実。

さらに、ほとんどの家臣が毛利家に残り、当主の輝元は養いきれなくなる。仕方なく解雇しなければならなくなった家来もおり、これらの者達は農民になって山野を開梱したり農作物をつくって生計を立てた。


画像:高杉晋作像(東行庵の敷地内)

やがて江戸時代に入り、明治維新が到来すると毛利家出身の農民たちは武士として返り咲き、長州藩で働くようになる。長州藩に入所した農民の先祖は、ほとんどが毛利家に仕えていた武士だったという。

奇兵隊に農民が多かったのは偶然ではなく、毛利家がルーツとなっているわけだ。また、藩が生活の面倒をみるのは武士だけ。だから、農民が藩を守るためにボランティアで兵隊に志願するのは有り得ないこと。

それでも奇兵隊の4割が農民なのは、長州に強い想いがあり、その時点での身分は違っても元をたどれば自分の先祖が毛利家の家臣というつながりがある。同じ意思をもつ同志の集まりが奇兵隊なのだ。

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