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日本最大の一族「藤原氏」のココがスゴイ!藤原氏の子孫は今も続いているのか?

日本最大の一族「藤原氏」のココがスゴイ!藤原氏の子孫は今も続いているのか?


画像:平城宮跡の朱雀門

日本史において"誰それ?"ではすまされない藤原氏。日本最大の氏族であり、後にも先にも藤原氏を超える規模の一族はおりませぬ。

しかし「名前は聞いたことあるけど何した一族か詳しく知らない」という人も多いのではないでしょうか。そもそも「興味がわかない」って意見もあるでしょうが・・・

そこで今回は「読めば3分でわかる藤原氏」と題し、藤原氏の"何が凄かったのか"をコンパクトにまとめてみました。日本史に興味をもつ入口になれば幸いです。

藤原氏の外戚システムがスゴイ!

日本最大の一族「藤原氏」のココがスゴイ!藤原氏の子孫は今も続いているのか?
画像:藤原不比等(菊池容斎・画)

藤原氏の起源は1374年前の飛鳥時代に始まり、令和になった今でも続いている家系なんです。

なぜ藤原氏は途絶えなかったのか、その答えは、奈良時代と平安時代に集約されます。

645年に「蘇我入鹿・蘇我蝦夷」親子を謀殺した「中臣鎌足」は、その功績によって内大臣(外交のトップ)まで昇格し、朝廷での働きも認められ天智天皇から「藤原」の姓を賜りました。

藤原氏の権力は平安時代の後期(1130年)に衰えますが、それまで朝廷で重要なポジションを維持し続け、平安時代には、天皇に代わって政治を行う地位(摂政・関白)まで上り詰めるのです。

そして、その地盤を築いた人物が藤原氏2代目の「藤原不比等」

不比等は娘の宮子を文武天皇と結婚させ、天皇の「外戚」になって政治に加わるシステムを奈良時代に構築します。

外戚とは、天皇と自分の娘を結婚させて天皇と親戚になること。

これの何がスゴイって、自分の孫(自分の娘が産んだ子供)が次の天皇になる可能性が高くなり、そうなれば祖父という立場で政治に首を突っ込むことができるわけです。

やがて宮子が首皇子(のちの聖武天皇)を産むと、不比等は次女の光明子を後宮(天皇や皇后が住む部屋)に預け、不比等の思惑通り聖武天皇と光明子も結婚しました。

向かうところ敵なしの藤原氏

日本最大の一族「藤原氏」のココがスゴイ!藤原氏の子孫は今も続いているのか?
画像:藤原道長(菊池容斎・画)

不比等が構築した"外戚システム"は時代が変わっても藤原氏に受け継がれていきます。なかでも、外戚システムを上手く使って平安時代に大出世したのが藤原良房と藤原道長です。

良房は人臣(家臣)で初となる摂政(天皇に代わって政治を行う官職)となり、それまで摂政は皇族が受け継いできた高い地位だったため、人臣が摂政になるのは異例のことでした。

まさに、大出世。こうなると、もう向かうところ敵なしです。

また、良房の養子である藤原基経も外戚で天皇と強く癒着し、こちらも人臣で初となる関白(天皇の政治を補佐する最高位の官職)となり、それ以降、幕末まで藤原氏だけが摂政・関白を継承します。

道長と頼道の代には摂関政治(摂政と関白が政治を行った)が最盛期を迎え、道長に関しては内覧(天皇より先に書類を見てもいい権利)も許されていたため、もはや藤原氏は無双状態。

自由自在に政権を操って栄華を極めたそうです。

この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば

これは道長が詠んだ短歌ですが、「この世は私のためにあるのかもしれない。満月のように満ち足りて欠けているものが何もない」という意味。

藤原氏の権力が凄かったことを物語っていますね。

藤原氏の高度なスキル

日本最大の一族「藤原氏」のココがスゴイ!藤原氏の子孫は今も続いているのか?
画像:大政奉還(明治神宮聖徳記念絵画館)

どんなに権力を有しても、決して天皇家を滅ぼそうとはしなかった藤原氏。天皇を滅ぼさず、天皇を利用しながら政権を支配したのが藤原氏です。

天皇家といえば神様(日本神話)の末裔ですし、神聖な領域を侵してはいけないという背景もあったでしょうが、実際は、もっと現実味を帯びていました。

不比等は朝廷で法務を担当しており、大宝律令の制定に深く関与した人物です。律令とは古代の日本における法律(律は刑法・令は民法)で、現代の条例や憲法のようなもの。

国家が成り立つ仕組みとして、国の象徴のもと守るべきルールを設けることの重要性を理解していたとされ、天皇を除外すると治安や情勢など国そのものが不安定になると考えていたようです。

実質的には政権を掌握していた藤原氏でしたが、朝廷に仕える氏族というスタンスを崩さず、天皇と廷臣、このパワーバランスを保ち続けています。

その処世術は後世の権力者たちの模範にもなっていることが分かります。足利家も織田信長も豊臣秀吉も、どんなに強くなろうと天皇の機嫌をとりながら自分の地位を高めていきました。

つまり、権力を手にしても独自の国家をつくることはしなかったわけです。しかし、例外がいました。

江戸に幕府を開き、政権を独占し、栄華を極め、やがて日本を支配した徳川家。天皇を滅ぼそうとはしませんでしたが、結果的に天皇家をないがしろにして破滅しています。

幕末には天皇を擁立する勤王派(尊王派)の動きが強まり、徳川の独裁政権に不満を抱く勤王派が幕府の廃絶を訴え、やがて明治維新が始まると戊辰戦争に発展。

最終的に徳川家は天皇に政権を返上(大政奉還)しましたが、すでに収拾不能となっており徹底的に追い込まれ幕府は壊滅しました。

このように、天皇とのパワーバランスが崩れてしまうと国家を揺るがす大事件になってしまうことが歴史でも証明されているわけで、いかに藤原氏の処世術が巧妙であったかがわかりますね。

滅ぼさずに利用する、実に高度なスキルです。

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