信長公記・6巻その2 「足利義昭との和睦」
画像:今堅田城跡
今堅田の戦い
1573年3月23日(天正元年)、織田軍は出陣し、27日には瀬田(滋賀県大津市大萱)に進軍して石山の砦に向かった。
敵方は山岡景友が伊賀・甲賀の衆を引き連れて砦を守っていたが、砦が完成する前に織田軍が攻めたため、守りを固められなかった山岡は29日に降伏し、石山から撤退した。ただちに砦は取り壊された。
4月1日、信長は今堅田城(大津市堅田)の攻略を開始した。琵琶湖の東から明智光秀が船で城の西側へ攻め、南東からは丹羽長秀と蜂屋頼隆が城の南に突撃し、正午に明智軍が城内へ突入して今堅田城を落とした。
この合戦をもって志賀郡(滋賀県にあった郡)の大半を平定したことになり、今堅田城には明智光秀が入城した。ほか3名の武将は岐阜へと帰還した。
この一戦を知った足利義昭は信長に対する敵意を公に表した。
京都の無頼(正業に就かず無法な行いをする)の若者らは「かぞいろとやしなひたてし甲斐もなくいたく も花を雨のうつ音(親のように大事に育ててきた甲斐もなく激しい雨が花を打つ音がする)」と落書きして回った。
※激しい雨・・・信長のことで、花とは義昭のこと
4月26日、信長は岐阜城を出発して京都へ向かった。道中、細川藤孝と荒木村重が信長に対する忠節の証として逢坂(滋賀県大津市)まで織田軍を出迎えに来た。
信長は大いに喜び、その日は東山の智恩院(京都市東山区)に陣を構えた。織田軍に属する旗本の部隊も、白川、粟田、祇園、清水、六波羅、鳥羽、竹田(京都市の左京区、東山区、伏見区)に陣を構えて泊まった。
信長は荒木村重に郷義弘(越中の刀職人)が造った刀を与え、細川藤孝には名刀の脇差(短刀)を与えた。
5月4日、信長は堂塔寺を除く洛外(京都の市外)に火を放ち、義昭に和平を申し出た。その際、信長は義昭が求める条件に従う旨を提示したが、これを拒み、和平を受け入れなかった。
足利義昭との和睦
5月5日、織田軍は上京(京都市上京区)にも火を放った。義昭は抵抗を諦め、和睦を受け入れた。(実際には朝廷が間に入って和睦を成立させた)
7日、信長の代わりに織田信広(信長の腹違いの兄。父は織田信秀だが母親は土田御前ではない)を義昭のもとへ行かせ、和睦成立の御礼を申し述べさせた。
事態の収拾に一安心した信長は、8日に京都を出発し、途中で守山(滋賀県守山市)に泊まってから岐阜に帰還した。
百済寺の焼き討ち
画像:百済寺
岐阜へ帰還する途中、守山を出た信長は百済寺(滋賀県東近江市)に寄り、2~3日ほど滞在した。近隣の鯰江城(東近江市)には六角義治が立て籠もっており、この城を落とすために立ち寄ったのである。
柴田勝家、佐久間信盛、蒲生賢秀、丹羽長秀らで編成した織田軍は鯰江城の四方を囲み、砦を築いた。ちなみに、百済寺は密かに鯰江城を支援しており、一揆に力を貸すという情報が信長に届いた。
5月12日、激高した信長は百済寺に火を放ち、堂塔伽藍(寺院の建物の総称。堂と塔と伽藍。伽藍とは僧侶たちが修行する場所)は焼け落ちて、見るも無残な光景となった。
そして、その日のうちに信長は岐阜城へ帰還した。義昭が信長の動きを見過ごすはずがなく、近いうちに再び不仲になることが容易に予想できた。
そして、そのときは織田軍の進軍を阻むために琵琶湖の境近くにある瀬田(滋賀県大津市大萱)を封鎖してくることも予想できた。それに備えて信長は3000や5000の兵が乗船できる大船を造るように命じ、道が塞がれても琵琶湖を移動できるように策を講じた。
大船の製造
6月21日、信長は佐和山城(滋賀県彦根市)に入って大船の造船に着手した。使用する材木は多賀と山田(滋賀県犬上郡多賀町)の森林を伐採し、芹川(信長公記には勢利川と記されている)の流れを利用して佐和山の麓である松原に集められた。
松原には諸国の領内から鍛冶職人や番匠らが招集され、大工棟梁は岡部又右衛門(のちに安土城の建築でも大工棟梁)が任命された。
大船は全長が54メートルで幅は12.6メートル、船上に100本の挺櫓(ちょうろ。100本の櫓で操作する船)を造り、船首と船尾にも矢倉(船矢倉)を備えさせ、日夜を通して信長は造船を監督した。
順調に工程は進み、8月2日に完成した。そして、この大船が役立つ日は、すぐさま訪れた。
大船で京都へ出陣
大船が完成する2日前の7月21日、足利義昭は挙兵して二条の座所(旧二条城。京都市上京区)を日野輝資、高倉永相、伊勢貞興、三淵藤英らに守らせ、自らは真木嶋(宇治市槙島町)に移動した。
この知らせは大船の完成日に信長に届き、8月3日には大船に乗りこんで琵琶湖を渡り、織田軍は坂本(滋賀県大津市下阪本)へ進軍した。とても強い風が吹く中での乗船だったが、難なく進行した。
4日には京都へ入り、妙覚寺(当時は京都市中京区衣棚通二条。現在は京都市上京区)に陣を構え、ただちに二条の座所に攻め入った。座所を守る義昭の家臣らは、あまりに多い織田の大軍に戦意を失い、降伏した。
降伏した者たちは信長に人質を差し出して服従を約束し、織田軍の一員となった。