信長公記・首巻その11 「美濃統一と上洛」
画像:織田信長の銅像(岐阜駅)
宇留摩城と猿喰城の降伏
1565年(永禄8年)の夏、信長は飛騨川を越え東美濃へ侵攻した。
現時点で美濃の支配者・斎藤龍興の配下である鵜沼城(または宇留摩城。岐阜県各務原市)の城主・大沢次郎左衛門と、猿喰城(岐阜県加茂郡坂祝町)の城主・多治見修理を討つためである。
大沢と多治見は犬山で互いに連絡を取り合っていた。
信長は鵜沼城と猿喰城を攻めるにあたり、二つの城から1キロほど離れた場所にあり、さらに見下ろすことのできる伊木山(木曽川の対岸にある標高の高い山。岐阜県各務原市)に陣地を築き、昼夜にわたり監視した。
すると鵜沼城の城主・大沢は信長の圧力に耐えかねて降伏した。多治見修理の軍勢は織田軍に応戦したが、やがて丹羽長秀が猿喰城の生活用水を断つことに成功し、降伏した。
堂洞の勲功
にも斎藤龍興の拠点・加治田城があり、(二人は親子)が入っていた。
猿喰城の400メートルほど先には加治田城(岐阜県加茂郡富加町)があり、すでに城主の佐藤親子(佐藤忠能・佐藤忠康)は信長に寝返って織田家の配下となっていた。
1565年10月(永禄8年)、斎藤義龍の家臣・長井道利は加治田城を奪還するために、加治田城から2.7キロメートルほどの堂洞(岐阜県加茂郡富加町)に砦を築き、猛将として名高い岸信周らを入れ、自分は関(岐阜県関市)に本陣を構えた。
信長は加治田城に援軍を送り、10月21日に堂洞を攻めた。堂洞は北・西・南が谷で囲まれており、東だけが丘となっており、この日は強い風が吹いていた。
信長は兵らに松明を持たせ、「塀のそばまで押し寄せたら四方向から堂洞の砦に投げろ」と指示した。その頃、長井道利は堂洞の砦から2.7キロメートルまで進軍していたが、織田軍の勢いある進軍に突撃できずにいた。
織田軍は砦を囲み、信長に指示された通り松明を投げ入れて二の丸が炎上し、それを機に本丸へ攻め込んだ。
このとき、信長公記の著者・太田牛一は二の丸の屋根に登って本丸の敵を矢で射続けた。この勇姿に信長は感服し、弓の名手として称えている。
午刻(昼)に始まった合戦は酉の刻(夕方5時)を過ぎており、ついに河尻秀隆が本丸への侵入に成功した。それに続き丹羽長秀の部隊が突撃したが、岸信周や逃れた多治見の兵らが抗戦し、砦の中は敵と味方の区別がつかないほど混戦となった。
しかし、次々と押し寄せる織田軍に押され、堂洞の砦は落ちた。合戦後、信長は加治田城へ移動して佐藤親子のもとを訪ね、息子の佐藤忠康の屋敷に泊まった。
翌日(22日)、ひとまず帰還しようと身支度を整えていたところ、斎藤龍興が稲葉山城(岐阜県岐阜市)を出発して関の長井道利と合流し、3000の兵が加治田城に押し寄せているという報告が入った。
対する信長の軍勢は800ほどで、なかには負傷している兵もいた。圧倒的に不利と考え、信長は退却を決意し、斎藤軍が到着する前に無事に全員を退却させた。
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