信長公記・10巻その2「二条殿の完成」
画像:京都御所の今出川通りの築地(石垣)
内裏の築地造営
京都では紀伊(和歌山県)での一戦(雑賀衆との戦い)について様々な情報が飛び交っていた。
そこで、京都在中(織田政権下の京都所司代)の村井貞勝は、紀伊征伐の先勝祈願と内裏(京都御所。皇居)の修復完成(1574年4月)の祝賀をかねて、内裏の築地(石垣)の造営を行うことを町人に呼び掛けた。
町人は賛同し、村井貞勝が警備する中で築地の造営が開始された。そして当番(グループ)を決め、1577年3月31日(天正5年3月12日)から作業が進められた。
現場(区画)ごとに舞台を設置し、舞台には花車や飾り品を施した稚児(乳児)や若衆(少年または青年)が乗り、美しさ・華やかさを競い合った。笛や太鼓で囃し立て、町人たちは時おり囃しの音に合わせて踊りながら作業に取り組んだ。
すっかり季節は春であり、身分の低いものも位の高い者も手に桜を持って見物に訪れ、舞台に施されている燻香(芳香)や桜の香りが造園中の築地の周り漂っていた。
この光景を見た宮中(皇居)の人々は喜び、思い思いに詩歌を詠みながら一時の風流に思いを馳せていた。そして、築地の造営は短期間で完成したのであった。
雑賀衆の降伏
一方、紀伊では、織田軍の堀秀政の部隊が雑賀川(和歌川。和歌山市)を渡って敵に攻め入ろうとしたが、馬や兵らは川の中で足をとられて前進できず、川を渡り切った者も湿地で足元がすくわれ、身動きがとれず困難を極めた。
そこへ敵(雑賀二組。雑賀荘と十ヶ郷の勢力)の鉄砲隊が二列(25人ずつ)に並んで頭上から銃弾を浴びせてきた。さらに、弓矢隊の矢も降り注ぎ、織田の部隊は甚大な損害を被って退却した。
その後、各所で野戦が行われたが膠着状態が続き、雑賀の一帯は亡国のように荒れ果てていた。4月3日、信長は「条件を受け入れて降伏し、忠節を誓うなら放免する」と雑賀二組に提案した。
つまり、この条件とは、石山本願寺攻めに協力することを誓えというものだった。
雑賀二組の鈴木孫一(雑賀孫一。のちの鈴木重秀で雑賀衆の鉄砲隊長として有名)、粟村三郎大夫、土橋平次、岡崎三郎大夫、宮本兵大夫、松田源三大夫、島本左衛門大夫の7名は、連署した誓紙を差し出して降伏した。
画像:佐野砦跡(大阪府泉佐野市旭町。現在は第三小学校)
4月9日、信長は雑賀から香庄(大阪府岸和田市)まで兵を引き上げたが、佐野郷(大阪府泉佐野市)に砦(佐野砦)を築くよう命じ、この地に明智光秀、佐久間信盛、羽柴秀吉、丹羽長秀、荒木村重らを残した。
また、根来衆の杉之坊照算と織田信張を佐野砦の守備として任命した。11日に若江(東大阪市の旧名)に入った信長は、ここで名物の品々を収集した。品目は次のとおりである。
- 天王寺屋の了雲から「貨狄の花入」を召し上げ
- 堺の商人である今井宗久が「開山の蓋置」と「松島の茶壺」を献上
- 今井宗久から「二銘の茶杓」と「紹鴎茄子の茶入」を召し上げ
それぞれに、褒美として金銀が与えられた。信長は4月12日に八幡(京都府八幡市)で一泊し、13日に京都へ入って妙覚寺(当時は京都市中京区二条衣棚。現在は上京区)に泊まった。
そして、15日に安土山へ帰還し、しばらくして7月18日には奥州(東北地方南部)の伊達輝宗から鷹が進上された。
信長の新屋敷
信長の新屋敷(二条殿。二条晴良の屋敷跡。京都市中京区両替町通御池上る東側)の建築が1576年5月(天正4年4月)に始まったが、新屋敷が完成したとの報告を受けて7月21日に信長は入居した。
近衛信基の元服
画像:二条殿跡
近衛前久(官位・従一位の公家。近衛家17代当主)が信長のもとを訪れ、息子の元服を二条殿(信長の屋敷)で行いたいと申し出てきた。しかし、公家の息子の元服は内裏(京都御所。皇居)で行うのが通例だった。
そこで信長は「通例に従って内裏で元服するのが妥当である」と前久に進言して断ったが、それでも前久から強い申し出があったため、信長は承諾した。
そして、1577年7月27日(天正5年7月12日)に二条殿で前久の息子の元服が行われ、信長は前久の息子の御髪(みぐし。首や頭の敬称)を整え、加冠(冠をかぶせる儀式。信長が冠をかぶせた)を行い、武具など一式が揃えられた。
摂家・清華家(いずれも上位の公家)をはじめ、近国の大名らが臨席するなかで無事に元服は終わった。なお、元服の際、前久の息子は信長から一字を賜り、信基へ改名した。
祝儀として近衛信基には、御服(天皇や上皇など貴人の衣服を表す敬称)が10枚、長光の腰太刀、銭100貫文※、金50枚が贈られた。
※(安土桃山時代という時代背景をもとに1貫文を現代の価値に換算すると8万~12万円前後。100貫文は、およそ1,000万円。ちなみに、貫の価値が低い時期では1貫文=現代の価値で5万円前後)
その後、信長は京都で政務を監査したのち、28日に京都を出発して山岡景隆の瀬田城(滋賀県大津市)で一泊し、29日に安土城へ帰還した。
北国への進軍
9月19日、信長は柴田勝家に軍を預けて北国(東北)へ向かわせた。
この軍勢は羽柴秀吉、滝川一益、前田利家、丹羽長秀、佐々成政、金森長近、氏家直通、斎藤新五、稲葉一鉄、安藤守就、不破光治、原長頼、若狭衆(福井県南部から敦賀市を除いた地域の勢力)の部隊で編成された。
まず、織田軍は加賀(石川県南部)に攻め入り、手取川(石川県の主に白山市を流れて日本海へ注いでいる一級河川)を超え、本折村、安宅村、小松村(いずれも石川県小松市)、富樫(加賀市)を焼き払った。
しかし、羽柴秀吉は承諾を得ずに軍を離れ、居城である長浜城(滋賀県長浜市)へ引き返してしまった。報告を受けた信長は激高し、突然の出来事に武将らは戸惑っていた。