戦国時代のビッグビジネス!「港」は戦国大名の大きな収入源だった?
画像:手こぎ舟の水郷めぐり(近江八幡和船観光協同組合)
陸路が交通や運搬の手段だった戦国時代において、水路の発展は従来の常識を覆す革命でした。「港」を所領する武将は莫大な利益を得ており、たとえば、越後の上杉謙信も直江津と柏崎の運営で巨額の富を得た人物の一人です。
ほかにも、中国地方の覇者・毛利元就や戦国最強と称される島津氏、織田信長や島根の尼子氏など、戦国時代を代表する大名たちと「港」には深い関係があったようですね。
そこで今回は、戦国時代において「港」が武将たちに与えた影響について学んでいきましょう。
戦国時代と港
画像:新潟航空基地撮影「昭和の直江津」(海上保安庁海洋情報部)
武家政権が誕生した平安時代の後期には各地を結ぶ街道が開拓され始め、戦国時代(1400年後半)に入ると軍用路や物流の発展を目的に、各地域の武将たちが領内の道路工事に力を入れるようになります。
しかし、整備したとはいえ、当時の陸路は道幅が狭くて町や村から離れた場所にあり、山の中を通っているので不便で安全性に欠け、おまけに路面はデコボコしていて道路というより山道でした。
また、当時の運搬は馬1頭で最大80~100kgの荷物を運ぶのが限界で、現代のようにトラックで荷物を運ぶのとはわけが違います。そもそも馬は農作に利用する貴重な家畜であり、誰でも自由に扱える手段ではありません。
人力で荷物を運ぶにしても少量ですし、足下が悪く、さらに厄介なのが山道で盗賊に襲われること。労力、効率、リスク、どれをとっても問題だらけで、戦国時代において陸路での運搬はまさに命懸けだったのです。
そこで、馬を所有する馬主らが物資の運搬を請け負い、護衛(武士を雇う)をつけて目的地まで運ぶようになります。その"運送業者"は「馬借」と呼ばれ、やがて武家を凌ぐ経済力をもつようになりました。
ちなみに、織田信長の側室になった生駒吉乃も、馬借を営む生駒家の娘でしたね。
一方、水路による運送は一度に運べる量も馬1頭の10倍(小型の船で1000kg)で、陸路よりスピーディーに目的地まで運べるため、戦国時代は舟(水運。舟を利用して運搬する)が物流の主軸になっていきます。
水運が物流の主軸になると、運河(人工的に造られた舟の道路)が開拓され、湖上(湖の交通)、海路(海域の交通)、川口(河川が海や湖に流れ込む場所)の利用が増え、水路が発展しました。
とくに運河の開削は急進的に進められ、戦国期には水路の発展に力を注いでいます。たとえば、大坂の道頓堀川や琵琶湖につながる京都の高瀬川(今は水が流れていない)、宇治の喜撰橋など多くの運河が今でも現存しています。
それらの玄関口にあたる「港」には人が集まるようになり、港町は交通と経済の要所として大いに栄えました。
そして、港が栄えると、その港を所領する戦国大名(その地の武士や豪族を家臣団に組織して一国の経済・政治を支配する武将)が経済的に潤うわけで、つまり、港を持っている大名は笑いが止まらないほど儲かっていたんです。