信長公記・10巻その4 「播磨攻め」
画像:豊臣秀吉の肖像(中村公園プラザ秀吉清正記念館)
播磨攻め
1577年11月21日(天正5年10月12日)、信忠は京都に入って妙覚寺(当時は京都市中京区二条衣棚。現在は上京区)に泊まった。
そして、内裏(京都御所)へ向かい、松永久秀の一件(信貴山城の戦い)を速やかに解決した褒美として、信忠は朝廷から院宣を受けて三位中将の位を賜った。
信忠は三条実綱に同席してもらい、返礼として朝廷へ金30枚を献上した。なお、実綱にも御礼の品を贈った。24日、信忠は安土城に帰還して信長へ松永久秀の一件を報告し、26日に岐阜城へ帰還した。
12月2日、羽柴秀吉の軍勢が播磨(兵庫県西南部)に向け出発した。播磨に入った羽柴軍は夜間に国中を駆け回って人質を取り固める(地元の武将や豪族らに人質を差し出させる)※ことに成功した。
※(人質は服従の証であり、謀反を起こしたり裏切った場合の保険)
そして7日、秀吉は信長へ「12月19日までには播磨の平定が完了する」と見通しを報告した。その働きに感心した信長は帰還を許したが、秀吉は「褒められるほど働いていない」と帰還を辞退※し、但馬(兵庫県北部)に進軍して岩洲城(兵庫県朝来市岩津)を落とした。
※(過去に秀吉は無許可で部隊を離脱して帰還したことがあり、帰還を辞退したのは、その償いであったと考えられる)
さらに秀吉は太田垣氏が立て籠もっている竹田城(兵庫県朝来市和田山町)に攻め入り、城内から敵を退却させた。
竹田城に改修を加え、弟の木下秀長(羽柴秀長)を城主として入れた。
一方、信長は12月22日に京都の二条殿(二条晴良の屋敷跡に建てた信長の新しい屋敷。京都市中京区両替町通御池上る東側))に入った。
鷹が帰る
信長は鷹狩を主催することを決定し、12月27日に内裏(宮中。京都御所)へ挨拶に訪れた。
前方に弓隊を100人ほど従え、このとき弓隊が持っていた弓空穂(矢を入れる筒)は信長が与えたものだった。弓隊の後ろには鷹14羽を携えた家老衆が歩き、信長も鷹を携えつつ、その前後には小姓衆と馬廻を従えていた。
小姓や馬廻は美しく着飾っており、京都の見物人は織田の行列の美しさに目を奪われていた。信長は日華門(京都御所の門の一つ)から内裏へ入り、弓隊には朝廷から御折(折箱)が贈られた。
信長は鷹正親町天皇に見せたあと、達智門(京都御所の門の一つ)から内裏の外に出て、鷹狩を行うために東山(京都市東山区)へ向かった。しかし、東山に向かう途中、急に大雪が降ってきた。
雪に驚いた鷹は信長の腕から飛び立ってしまい、大和(奈良県)の方角へ消えていった。とても大切にしていた鷹だったため、信長は家臣らに鷹の行方を探させた。
すると、大和の越智玄蕃が鷹を保護して信長のもとへ持ってきた。信長は喜び、玄蕃に褒美として服と駁毛の馬を与えた。さらに、信長は「ほかに望みはあるか?」と尋ねた。
玄蕃は、没収された領土を返してほしいと言い、これを信長は認め、家臣に伝えて領土を返還させた。鷹を見つけて届け出たことにより、玄蕃は言葉では表せないほどの加護を受けたのであった。
羽柴秀吉
画像:黒田官兵衛の銅像(中津城)
1578年1月5日(天正5年11月27日)、羽柴秀吉は熊見川(兵庫県赤穂市)を越えて上月城(兵庫県佐用郡佐用町)に攻め入り、城下や近辺を焼き払った。
さらに、秀吉は黒田孝高(のちの黒田官兵衛)と竹中半兵衛を福原城(佐用町)へ向かわせて攻撃した。しかし、宇喜多直家の軍勢が敵の援軍に駆け付け、この報告を受けた秀吉は福原城に向かって宇喜多の軍勢と戦った。
敵兵を追い崩した秀吉は上月城に戻り、再び城を包囲した。そして7日目、一人の城兵が上月城の城主である赤松政範の首を持って城外へ出てきたのである。
城兵は降伏を求めたが、信長の指示によって美作国(岡山県東北部)の国境と備前国(岡山県東南部、香川県小豆郡・直島諸島、兵庫県赤穂市の一部)で磔の刑に処された。
上月城には山中鹿之介(山中幸盛)が入城し、秀吉は福原城を落とし、250を超える敵兵を討ち取った。過去の過ち※を償うために秀吉は、粉骨して播磨の制圧に尽力したのであった。
※(過去に秀吉は無許可で部隊を離脱して帰還したことがあった)
一方、信長が京都で政務を監査したのち、1578年1月10日(天正5年12月3日)に安土城へ帰還した。
吉良の鷹狩
1月17日、信長は吉良(愛知県西尾市吉良町)で鷹狩を行うために安土城を出発した。なお、信長は出発前に、秀吉への褒美として乙御前釜(茶道の道具)を与えることを決め、秀吉が帰還したら釜を渡すように家臣へ指示した。
17日は丹羽長秀の居城・佐和山城(滋賀県彦根市)に泊まり、翌日は垂井(岐阜県不破郡垂井町)に入った。19日には美濃(岐阜県南部)に入り、20日まで滞在した。
21日は雨が降ったが清洲(愛知県清須市)まで進み、22日に吉良で鷹狩を行った。雁(水鳥の総称)や鶴など多くの獲物を狩り、吉良を出発して26日に美濃を経由して安土城へ向かった。
ちなみに、信長は安土城に帰還する途中、怠けた兵を斬り殺している。28日、信長は安土城へ帰還した。
信忠への贈り物
2月4日、織田信忠が安土城を訪れ、丹羽長秀の屋敷に泊まった。信長は寺田善右衛門を向かわせ、信忠に名物の茶道具を贈った。なお、信長から信忠に送られた品々は次のとおりである。
初花肩衝、松花茶壷、竹子花入、雁絵、くさり(釜を吊るす道具)、藤波釜、道三茶碗(曲直瀬道三が所有していた茶碗)、内赤盆
さらに、5日には松井友閑らが珠徳茶杓、大黒庵の瓢箪炭入、 古市澄胤の高麗箸を贈った。