徳川幕府には採用試験があった!役人になるための必修科目とは?
画像:史跡・湯島聖堂パンフレット
江戸時代の役人を現代風に言うと、徳川幕府の役人は国家公務員、諸藩の役人は地方公務員といった感じでしょうか。
この時代は幕藩体制で地方分権が徹底されていましたから、幕府の役人と諸藩の役人は完全に別物でした。とはいえ、幕府の役職を模範にしていた藩も多かったようです。
今回のテーマは「徳川幕府の役人になるための必修科目」ですが、幕府の役人になるためには採用試験があったことをご存知でしょうか。
なぜ試験が必要だったのか、徳川幕府の必修科目は何だったのか、その2つをポイントに「徳川幕府の思想統制」について学んでみたいと思います。
徳川幕府の必修科目
画像:松平定信(鎮国守国神社)
1787年に起きた天明の打ちこわし後、老中に就任した松平定信は寛政の改革に取り組むわけですが、その政策の一つとして定めた規則が「寛政異学の禁」でした。
寛政異学の禁とは、「朱子学」以外の学問を学んではいけないというもの。これは徳川幕府が管轄する昌平坂学問所における規則であり、一般的な学問所に関しては自由です。
当時、様々に異なる学問(異学)が日本にも入ってきていたのですが、徳川幕府は朱子学で組織を統制(思想統制)していたため、異学を混ぜて統制を乱すことを避けたかったのです。
しかし、なかには異学に興味をもつ者も出てきますし、どうすれば朱子学だけに集中するかを考えた結果、定信は「幕府の採用試験を全て朱子学」にしました。
つまり、採用試験は学力を測るためのものではなく、朱子学(思想統制)を頭に叩き込むための"義務教育"だったわけです。
そして、それらを定着させる強硬手段として、定信は寛政異学の禁を発動しました。
なお、諸藩の役人に関しては義務付けられてはいませんでしたが、寛政異学の禁を見習う藩主も多かったようで、諸藩の藩校でも朱子学を積極的に学ばせていた傾向があります。
藩版(諸藩が出版した教科書)も朱子学を中心に構成されていることから、幕府の教育方針を模範にしていたと考えられます。
※思想統制とは
支配者(リーダー)に対する忠誠心を根付ける、または思想の自由を制限し、個人の考え方を統一するために用いられる方法。 徳川幕府の場合、将軍が絶対的な存在であることを植え付けるために、個人の考え方を排除する手段として朱子学で思想統制していた。 |
なぜ朱子学にこだわったのか?
画像:林羅山(京都大学文学部博物館)
では、なぜ幕府は朱子学にこだわったのでしょうか。その答えは、徳川家康の代までさかのぼります。
家康は江戸に幕府を開いた4年後(1607年)に林羅山という23歳の若者を召し抱えました。羅山は14歳頃から独学で朱子学を研究しており、その才能を見込まれ家康の厚い信頼を受けます。
家光(3代将軍)の時代になると羅山に土地が与えられ、羅山は私塾として先聖殿を創立し、幕府の役人や関係者に朱子学を教えました。
先聖殿が、のちの昌平坂学問所の基盤となります。
羅山は家康、秀忠、家光、家綱の4代に仕え、朱子学が官学(幕府が公認する学問)となりました。
このように、幕府は朱子学の思想を基に組織を統制してきましたから、今さら異学で思想統制が乱れるのを定信は不安視したのでしょう。
そこで考えついたのが「寛政異学の禁」と「役人の採用試験」だったのです。
教養という名の強要。幕府の役人になるには朱子学を猛勉強し、試験をクリアしないといけなかったんですね。確かに、これなら異学を学んでいる暇なんかありませんよね。