信長公記・首巻その8 「斎藤道三の死」
画像:池田恒興の肖像(林原美術館)
火起請の話
海東郡の大屋(愛知県弥富市)に織田信房 (造酒丞)の部下で甚兵衛という庄屋がいた。隣り村の中一色村(愛知県弥富市)には佐介がおり、お互いに顔見知りで親しかった。
12月の中頃、甚兵衛が清洲城へ貢納に赴いた際の留守を狙って佐介が甚兵衛の屋敷に強盗目的で押し入った。しかし、甚兵衛の女房が応戦し、佐介の刀の鞘を奪った。
この事件を甚兵衛が信房に訴えて「佐介に罪を与えてほしい」と願い出たが、なんと佐介も甚兵衛を訴えたのである。しかも、佐介の訴えが取り上げられて甚兵衛が悪者になってしまいそうになっていた。
佐介は織田の家臣・池田恒興(信長の母親と恒興の母親が同じで乳兄弟)の部下であり、火起請(ひぎしょう)を行った際に恒興の計らいがあって罪を逃れようとしていた。
火起請とは、訴えを起こした者が焼けた鉄を握り、熱に耐えられれば訴えが正当であると認められる。ちゃんと火起請を行った甚兵衛に対し、佐助は火起請を行う際に不正を働いて処罰されるところを恒興が擁護したのである。
そこに鷹狩から戻ってきた信長が通りがかり、甚兵衛と佐助が口論しているのを見て互いから事情を聞き、佐助が不正を働いたことに腹を立てた信長は「よし、わかった。俺が火起請を行う」と言い、その場を取り仕切る者に鉄を焼かせた。
しっかり焼いた鉄を信長は力強く握り、三歩ほど歩いて静かに鉄を置いた。そして、佐助に向かって「見たか!」と大きな声で怒鳴り、甚兵衛の訴えを正しいとして佐助が裁きを受けることとなった。
斎藤道三
画像:斎藤道三の肖像(常在寺)
斎藤道三は山城国西岡(京都府乙訓郡)で生まれ、父は松波庄五郎であった。道三は武士として発起するも失敗し、美濃の長井長弘に拾われて武術や兵学を学び、家来を抱えるまでに出世した。
しかし、道三は長弘を殺害して長井新九郎と名乗る。長井氏の一族と争いが起き、新九郎と名乗る道三は大桑城(岐阜県山県市)の美濃守護・土岐頼芸に助けを求めて長い一族との争いに勝利した。
ところが、新九郎と名乗る道三は土岐氏の殺害も企む。
まず、頼芸の息子の頼次を毒殺し、次に頼芸の弟で無動寺城(岐阜県羽島郡笠松町)の城主・土岐頼香を稲葉山(岐阜市)の麓(斎藤道三の家があった)に軟禁して外出させないようにした。
頼香は隙を見て稲葉山下を抜け出し無動寺城に戻り、尾張国(愛知県の西部)へ逃げようとしたが、道三が松原源吾を無動寺城に向かわせて暗殺を企み、逃げ場を失った頼香は自害した。
さらに、道三は大桑城の家老らを篭絡(言葉巧みに操る)し、あろうことか頼芸を追放してしまった。頼芸は尾張国に逃れて、織田弾正忠家の当主・織田信秀(信長の父)に保護された。
頼芸は、「恩ヲ蒙リテ恩ヲ知ラザルハ樹鳥枝ヲ枯スニ似タリ(恩を忘れて道理をわきまえない姿は木の枝を枯らす鳥のようだ」と嘆いたという。
以降、稲葉山城を居城とした道三は斎藤と名乗り、罪人に無情な刑罰を与える武将としても知れ渡った。
軽い罪の者でも牛裂き(罪人の両手・両足を2頭または4頭の牛の角に縄で結び、暴れる牛を二方向または四方向に走らせて罪人の身体を引き裂く処刑法 )で処刑し、釜茹での刑では罪人の身内に焚き木に火をつけさせるなど、聞くだけでも恐ろしい話である。
画像:1927年発行・大百科事典2巻「牛裂の刑」(平凡社)
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