信長公記・首巻その3 「織田家の内部抗争(斯波義統の死)」
画像:青木康洋・著「戦国武将、決断の瞬間」より「今川義元」(コスミック出版)
赤塚の合戦
1553年(天文22年)、信長は19歳(信長は天文21年に19歳を迎えており太田牛一の誤記と思われる)。
鳴海城主(名古屋市緑区)の山口教継(信長の父・信秀の家臣だった)、その息子の教吉は信秀から信頼を寄せられていたが、信長が跡を継いで直ぐに謀反を起こし、駿河衆(今川義元)と手を組んで笠寺(名古屋市南区)と中村(名古屋市中村区)に砦を築いた。
そして、大高城(名古屋市緑区)や沓掛城(愛知県豊明市)が落とされてしまった。鳴海城を教吉に守らせ、笠寺の砦には駿河から岡部元信が入り、教継は中村の砦に立て籠もった。
さらに、鳴海城には駿河から岡部元信が新たに城主として入り、大高城や沓掛城にも駿河衆の軍勢が入った。
この報告を受けた信長は5月29日に800の兵を率いて出陣し、鳴海の三の山(三王山)に陣を構えた。山口の軍勢1500は三の山から1.6キロメートル先の赤塚(緑区鳴海町赤塚)に進軍していた。
信長も赤塚に兵を進軍させた。合戦が始まると500mを隔てて矢による交戦行われ、荒川与十郎が戦死し、しばらく乱戦となり、引き分けとなった。信長は30人余りの兵を失い、居城である那古野城へと帰還した。
山口教継、教吉の親子は駿河に呼び出され、今川義元から切腹を命じられて二人とも自害した。
萱津の合戦
1552年(天文21年)に織田大和守家(織田信友が当主。清洲織田家、清洲衆とも言う)の家臣・坂井大膳は愛知県あま市の松葉城と深田を攻めて占領し、深田の織田信次は清洲衆の配下となった。
信長は9月12日の朝方に那古野を出発。庄内川(名古屋と清州の間を流れる川)まで進軍したところで織田信光の軍勢と合流し、二手に分かれて松葉と深田を攻め、信長は庄内川を超えて海津(あま市の萱津)へ進んだ。
清洲から3.3キロメートルほどの位置にある海津で信長の軍勢と清洲衆が激突した。清洲衆は敗走し、敵方は坂井甚介を含む50人ばかりが戦死した。松葉と深田を占領していた清洲衆らも降伏した。
信長は撤退する敵を清洲まで追って、近隣の田畑を荒らして兵を引き上げた。
清洲織田家の分裂を画策
武衛様(斯波義統。尾張守護職)の家臣・簗田弥次右衛門は、清洲の那古野弥五郎と名乗る300人ほどの兵を抱える大将と若衆同(同性愛)の関係にあり、簗田は弥五郎に「信長と手を組んで清洲織田家(当主は織田信友)の内部を分裂させよう」と話をもちかけた。
簗田は那古野城で信長に謁見し、忠義を尽くすと言い深く礼をした。これに信長は満足した様子で、対する簗田は信長の配下の者たちを清洲城に引き入れる手引きをし、清洲城下を焼き払った。
この報告を受けた信長も那古野城から出陣したが、清洲城の守備は堅固で斯波義統が城攻めに備えて配置していたため、ひとまず兵を引き上げて清洲を乗っ取る戦略を練った。この一件により簗田は信長の信頼を得た。
斯波義統の死
画像:義烈百人一首より「斯波義銀」の肖像(国立国会図書館)
1554年8月10日(天文23年)、義統の息子・義銀は家来の若侍を引き連れて川に魚釣りへ出かけ、その間は斯波邸の警備が手薄になっていた。義統は居たものの、邸宅には家老を含む少数の護衛だけであった。
これを好機と考えた織田大和守家(清洲織田家。投手は織田信友)の家臣・坂井大膳は、兵を挙げて斯波邸を取り囲んだ。義統は奮戦したが急襲のうえに多勢では成す術がなく、火を放たれた後に義統は屋敷の中で自害した。
堀に飛び込んで溺れ死ぬ女や焼死した家来など実に哀れで無残だった。義銀に報告が入り、信長に助けを求めるために那古野城へ駆け込んだ。
信長は義銀に200の兵を与えて保護した。なぜ斯波家が襲撃されたかというと、義統と信友は尾張守護の実権を巡って争って不仲な状態で、義統は信長と手を組んで信友の失脚を企んでいた。
斯波家は織田大和守家に擁護されていた立場であって、義統が信長を頼ったことは許せなかったのである。この企みを察した信友は報復のために斯波邸の襲撃を決行した。結果をいえば、自滅したことになる。
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