読めば"文明開化"の音がする?意外と面白い「明治時代」の雑学8つ
画像:明治150周年の企画ポスター(西尾市岩瀬文庫)
辞書によると、雑学とは「種々雑多な知識の集合体」とのこと。わかりやすく言えば、調べてまで得る必要のない知識の集まり。知ったところで、ほとんど役に立たない知識の集合体というわけです。
しかし、雑学には「面白い」「興味深い」といった側面があり、たとえば、雑学がきっかけで日本史や世界史、または歴史上の人物に興味をもつ"入口"になることもあります。
そうした意味を踏まえた上で、今回は「明治時代」の雑学がテーマ。265年続いた江戸時代が終わり、日本に西洋の文明が入り、制度や習慣が大きく変化した文明開化の明治時代。
現代の日本の基盤が築かれた時代とも言われており、日本で初めて「I Love You」を翻訳した人物や静岡の茶を全国に広めた人物など、確かに無理して調べるほどでもない知識ですが、そんな雑学を今回は紹介したいと思います。
日本初のI Love You
画像:夏目漱石(明治文学全集55夏目漱石集)
明治時代の名だたる文豪のなかでも、森鴎外と並び日本文学の最高峰と称される「夏目漱石」。
「坊つちゃん」や「吾輩は猫である」など多数の名作を遺しましたが、漱石が執筆に没頭したのは余生の10年ほどで、小説が世に知れ渡るまでは英語教師が本職でした。
授業中に「I Love You」を「我、お前を愛づ」と訳した教え子に対し、
そのようなことを日本人は言わないから「とても綺麗な月だ」と訳しなさい |
と言ったそうですが、この話を裏付ける文献や史料は残っていないので真意は定かではありません。
※愛づ(めづ)とは、「かわいがる」「大切にする」という意味で使われていた言葉
当時の日本には「愛」、つまり「LOVE」という概念がなく、現代とは「愛」の概念が異なっており、意味の受け取り方も違いました。そこで漱石は、I Love Youのニュアンスや雰囲気を詩のような言葉で表現したわけです。
「あなたは月のように綺麗です」または、「夜の空を見上げて月を愛しむように、私にもあなたが必要です」という意味に置き換えたのでしょう。なんとも小説家らしいロマンティックな発想ですね。
この逸話から、「I Love You」を日本で初めて翻訳したのは夏目漱石と言われています。
「吾輩は猫である」の「猫」は、なぜ名前がない?
画像:吾輩は猫である(青空文庫)
夏目漱石の代表作「吾輩は猫である」は、
吾輩は猫である。名前は、まだ無い |
という冒頭文で始まりますが、この物語に登場する猫(ストーリーの進行役)は、漱石が実際に飼っていた猫がモデルと言われています。
漱石の妻(夏目鏡子)は猫が苦手でしたが、一匹の野良猫が夏目夫妻の屋敷に出入りするようになり、追い払っても出ていく気配がなく、ついに二人は猫を飼うことにしました。
その猫を呼ぶときには「猫」と呼んでいたそうです。
つまり、名前を付けてもらえなかったんですね。という理由から、「名前はまだない」わけです。
<吾輩は猫である 概要>
英語教師、珍野苦沙弥(ちんのくしゃみ)の屋敷に住み着いた一匹の猫が主人公。その猫には名前がない。珍野家に関する人間模様を「名前のない猫」が、おもしろおかしく滑稽にナレーションしていくユーモアな小説。夏目漱石の出世作となった処女小説である。
勝海舟が「静岡茶」を全国に広めた?
画像:勝海舟(国立国会図書館)
1854年 海防意見書を幕府の老中・阿部正弘に提出
1855年 長崎海軍伝習所に入門
1860年 軍艦、咸臨丸で太平洋を横断
1862年 軍艦操練所頭取から軍艦奉行並へ昇進
1863年 坂本龍馬が門下生になる
1864年 神戸海軍操練所の設立が認められ、準備を進める
1865年 軍艦奉行に任命
1868年 陸軍総裁に任命され、江戸無血開城に成功
1869年 外務大丞に就任
など、江戸時代に幕府の家臣として尽力し、坂本龍馬から師匠と慕われた勝海舟。明治維新では重役を歴任し、朝廷と徳川家の和解を成立させました。しかし、すぐに明治政府の重職を辞任し、その後は余生を過ごしています。
では、他界するまでの残り30年、海舟は何をして過ごしていたのでしょうか。
海舟は徳川慶喜に同行して静岡県の駿府に移住し、100年以上も放置されていた元・幕府の土地でお茶の栽培を開始しました。その土地が、現在の牧之の原台地(島田市・牧之原市・菊川市)です。
幕臣の時に町人と交流を深めていた海舟は農業についても詳しくなり、牧の原台地は土質や気候などが茶の栽培に適していると判断しました。
そして、幕府の終焉により職を失った1万3000人の武士も静岡へ移住している状況で、すべての者たちを養うことは不可能でした。そこで海舟は、その者たちに茶の栽培の仕事を与え、事業として取り組んだのです。
また、明治政府が殖産興業の一環として茶の輸出に力を入れようとしていたこともあり、その動向を知った海舟は「茶で利益が見込める」ことを予測し、茶の栽培を始めたと言われています。
土地の開拓に悪戦苦闘し、試行錯誤を重ね、茶葉の収穫に成功すると明治10年には明治天皇から嘉賞を受け、明治22年に東海道線が開通すると全国へ出荷され、静岡の茶が高い評価を受けるようになりました。
現代も牧の原台地が茶の産地として有名なのは、明治時代に海舟らが茶葉づくりに奮闘した功績と言えるでしょう。静岡県島田市には勝海舟の銅像があり、茶畑を見守っているような眼差しで佇んでいます。
「一人」と「一名」の数え方の違い
画像:「屯田兵」歴史写真集
人数を数えるとき、一人、二人と数えたり、一名、二名と数えたりしますよね。なぜ、二通りの数え方があるのでしょうか。
それは、
個人(名前や年齢など)を特定できる人物に対しては「名」で数え、 個人を特定できない人物に対しては「人」で数える |
と定義づけられます。昔は、そのようなルールがなかったので個人を特定できなくても共通で「人」と数えており、「名」で数えられるようになったのは明治時代になってからです。
明治政府は地域ごとの住人一人一人の名前・年齢・住所などを把握するために、明治5年に壬申戸籍という制度を開始し、それまで戸籍は一部の地域のみで行われていましたが、壬申戸籍が全国的な戸籍の発祥となります。
そして、壬申戸籍をもとに20歳以上の男性は徴兵検査が義務付けられました。検査に合格すると軍人となり、合格した男性を数える際に一名、二名と数えたのが始まりです。
明治5年までは数える対象が人だったので一人、二人という数え方(物であれば一個、二個)でしたが、戸籍によって名前が特定できるようになり、それに合わせて名前の「名」をとって一名、二名と数えられるようになったそうです。
将棋の発祥地
画像:将棋定跡講義
明治42年12月20日に将棋新報社から出版された将棋の手本書「将棋定跡講義」(当時の価格50銭)に、将棋の由来についても記されており、その"曖昧さ"が興味深いので紹介します。
日本の将棋は支那(中国)から伝わったものを改良しているから日本が発祥ではない。西洋でも将棋が行われているが、西洋の将棋はインドから伝わったと言われている。 そして、支那の者たちは他の国から伝わったと言っている。では、発祥の地は、どこなのだろうか。西洋人が調べたところ、インドが発祥地と判明し、さすが西洋人は博識である。 |
当時の言語を現代風に置き換えて訳していますが、なかなかフワッとした曖昧さがあって面白いですよね。ちなみに、明治40年頃は50銭で白米が5キロ買えたので、将棋定跡講義は高価格な本であったことが分かります。