明智光秀と坂本龍馬の共通点は「悲劇の家紋」だった?(後編)
画像:明智光秀像(本徳寺)
前編に引き続き、後編では桔梗紋を背負った4人の人物を紹介していきましょう。果たして本当に桔梗紋が「悲劇の家紋」なのか、それぞれの末路を見ながら考えてみたいと思います。
↓前編はこちら↓
その二. 加藤清正
画像:加藤清正の肖像(京都市勧持院)
熊本城の建築で有名な加藤清正。ほかにも名古屋城の石垣や江戸城(富士見櫓下の石垣)も彼の仕事。賤ヶ岳(しずがたけ)の七本槍の一人に数えられ築城の腕前だけでなく武力にも秀でた武将でした。
そんな清正の家紋は「蛇目(じゃのめ)紋」と「桔梗紋」。基本的には蛇目紋を使用していたのですが、佐々成政の切腹に伴い清正は旧領主の尾藤氏に代わり肥後入りするときに桔梗紋を使い始めています(1588年)。
その際、領内には尾藤氏が使っていた武具などが残っていました。尾藤氏の家紋は桔梗紋でしたが、加藤氏も土岐氏の末裔であり桔梗紋とは縁の深い武家だったので秀吉の許しを得て使用するのを許されたという経緯があるようです。
肥後の北部(19万5000石)と隈本城を秀吉から与えられ、1591年頃から城の大規模な改修工事に取り掛かり熊本城を完成させました。しかし、肥後に来てからの清正は何かと苦労が絶えなかったとか・・・。
天草ではキリシタンが急に一揆を起こしたり(1589年)、朝鮮出兵の籠城戦で絶体絶命のピンチに陥ったり(1598年)、戦国時代の熊本は河川災害で頻繁に被害が起きていた土地だったので土木工事に悪戦苦闘したり、とにかく頭を抱えることが多かったみたいですね。
1603年に肥後の初代藩主になると、その頃は家康の時代。それでも元は豊臣家の家臣なので関ヶ原の戦いが終わった後も豊臣家への恩を忘れず、豊臣秀頼と家康の面会(二条城の会見1611年)に力を注いでいます。
そして清正が亡くなったのは面会が果たされた3ヶ月後のこと。江戸から熊本に帰る船の中で急な高熱を出し、熊本城に戻ってからも病状は回復せずに他界。死因は梅毒(性病)と言われていますが、一説によると「家康の毒殺」説も囁かれていますね。
天下統一を果たして強大な権力を得たとはいえ、まだ力をもつ豊臣家と清正が親しくしているのが面白くなかったのか、はたまた他に気に食わない理由があったのか定かではありませんが、そんな説もあるようです。
清正の死後、忠広が二代目を継ぎましたが、1618年に加藤家で家臣の内紛が起きるという騒動が起き、さらに1632年には忠弘の息子(光正)が江戸で文書を偽造するという事件が起きたり、やがて加藤家は改易となってしまいお家取り潰しになりました。
その三. 坂本龍馬
画像:上野彦馬写真館で撮影された坂本龍馬(高知県立民俗歴史資料館)
言わずと知れた幕末の風雲児、坂本龍馬。昨年の朝日新聞で「龍馬が教科書から消える」という記事を見たときにはショックでしたね。彼もまた桔梗紋を使っていた一人です。
大政奉還の1ヶ月後、慶応3年11月15日(1867年12月10日)に京都の近江屋で中岡慎太郎と一緒にいるところを何者かに襲われ暗殺されました。ちなみに龍馬の誕生日は天保6年11月15日(1836年1月3日)。
命日と誕生日が同じなんですよ。龍馬の暗殺は本能寺の変と同じように謎が多く、誰が何の目的で暗殺したのか解明されていません。囁かれている説だけでも7つほどありますし、幕末を代表するミステリーとなっていますね。
京都見廻り組や新撰組、紀州藩や土佐藩、薩摩藩やトーマス・グラバーなど誰が実行犯なのか研究が進められているそうですが未だ謎のまま。あげくのはてには中岡慎太郎が犯人という説まで浮上しているんです。
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