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信長公記・5巻その2 「織田信忠の具足初め」

信長公記・5巻その2 「織田信忠の具足初め」

信長公記・5巻その2 「織田信忠の具足初め」
画像:織田信忠の肖像(名古屋市図書館)

織田信忠の具足初め

1572年8月27日(元亀3年7月19日)、信長は嫡男(実子であり長男)の奇妙(織田信忠)の具足初めに伴い、信長は信忠を連れて近江(滋賀県)へ出陣した。

※具足初め・・・武家の男が13または14歳で初めて鎧(具足)を着用する儀式

初日は赤坂山(滋賀県高島市と福井県三方郡美浜町の境界に位置)で一泊し、翌日に横山(滋賀県長浜市堀部)へ入った。29日、浅井長政の居城である小谷城に進軍し、ひばり山と虎御前山(どちらも長浜市)に兵を進めた。

木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)、柴田勝家、丹羽長秀、佐久間信盛、蜂屋頼隆が城下に突撃して敵兵を小谷城まで追いやり、柴田勝家、稲葉一鉄、安藤守就、氏家直通ら先鋒隊が城下に陣を構えた。

30日には阿閉貞征(浅井の家臣))が立て籠もる山本山城(滋賀県長浜市)の麓に木下藤吉郎が火を放って回った。それを見た阿閉の兵100人ばかりが城内から飛び出し、砲火を阻止しようとした。

藤吉郎は受けて立ち、敵勢へ斬りかかって50余りの首を挙げた。この働きを知った信長は感心し、藤吉郎に褒賞を与えた。

信長は、8月31日には与呉湖(長浜市)、木本城(長浜市木之本町)にも兵を向かわせ、地蔵坊(浄信寺)や堂塔伽藍など、各要所を一つ残らず焼き払わせた。

また、9月1日は草野の谷(長浜市郷野町)に火を放った。草野の近くには大吉寺という50人ばかりの僧が住む寺があり、この寺は高い山の山頂にあり、一揆を起こした近隣の百姓が身を隠していた。

信長は、まず大吉寺の麓を襲わせ、夜には藤吉郎と丹羽長秀が寺の背後から攻め、僧や一揆衆を斬り捨てた。

その頃、打下(滋賀県高島市)の土豪・林与次左衛門や明智光秀、猪飼野甚介、山岡景猶、馬場孫次郎、居初又二郎らは琵琶湖に船を浮かべ、敵城に近い湖岸(琵琶湖の北の岸)を焼き払っていた。

さらに、琵琶湖の北側に浮かぶ竹生島に火矢と鉄砲で攻め寄せた。こうして一揆衆は一網打尽に排除され、浅井長政の兵力は次第に弱まったのである。

信長公記・5巻その2 「織田信忠の具足初め」
画像:虎御前山城跡(滋賀県長浜市)

9月4日、信長は小谷城の攻囲に備えて虎御前山(長浜市)に砦(虎御前山城)の構築を始めた。この動きを察知した浅井長政は、越前(福井県越前市)に向かって朝倉義景と談義した。

浅井は、「長島一向一揆で信長を足止めしている。これを機会に朝倉軍が近江へ出陣すれば尾張・美濃の織田勢を打つことが容易である」と偽りの情報で説得して挙兵を催促した。

朝倉は浅井の情報を信じ、義景が1万5000余りのへいを率いて近江に進軍してきた。

6日に小谷城へ到着した義景は現況を把握すると長政の情報が偽りであることに気づき、戦意を失った義景は 大づく(大嶽。長浜市西浅井と湖北町にまたがる山)の高台へ移動し、陣を構えたが動こうとはしなかった。

連携がとれていない朝倉の有様を見た信長は兵らに大づく(大嶽)への攻撃を命じ、織田の足軽たちは密かに山へと繰り出して日ごとに2~3人の敵兵を討ち取ってきた。

この働きに対して信長が褒賞を与えると足軽たちは益々やる気を出して戦いに繰り出していった。

そんななか、9月15日に朝倉の家臣・前波吉継と、その息子が信長への服従(内通)を申し入れてきた。信長は快諾し、前波親子に小袖や馬など戦備一式を与えた。

さらに、翌日には朝倉の家臣である戸田与次、富田長繁、毛屋猪介らも降伏し、前波と同じように褒美が与えられた。しばらくして、虎御前山の砦(虎御前山城)が完成した。

虎御前山城は四方を遠くまで見渡せる造りで、なおかつ堅牢(頑丈で壊れにくい)で堂々たる城郭だった。人々は「このような立派な砦は見たことがない」と驚いていた。

虎御前山城から北を見れば大づく(大嶽)の浅井・朝倉を遠望することができ、西を見渡せば琵琶湖と比叡山があり、小谷城の攻略に効果を発揮する砦であることは間違いなかった。

また、南には唐崎神社(大津市下坂本町)と石山寺(大本山石山寺。または石山本願寺。大津市石山寺)が見える。石山寺の仏像(信仰)は観音菩薩であり、紫式部も参詣して所願した場所と伝えられており、願いが叶った礼として源氏物語の巻を納めたという言い伝えがあった。

さらに、東には伊吹山(滋賀県米原市と岐阜県揖斐郡、不破郡関ケ原町にまたがる山)や不破関(不破郡)も遠望でき、虎御前山城は要害として他にに例を見ない存在感があった。

信長公記・5巻その2 「織田信忠の具足初め」
画像:朝倉義景の肖像(長浜歴史博物館)

虎御前山城から横山城(長浜市堀部)までは12キロメートルほどで、近いとは言えなかった。そのため、中間地点にあたる八相山と宮部村(どちらも長浜市)にも砦が築かれ、宮部城には宮部継潤が入り、その家来たちが八相山城を守った。

また、虎御前山城から宮部村までの道は細く整備されておらず悪路であり、信長は道路の工事を命じて道幅を6.5メートルほどに広げさせ、敵地まで続く5.5キロメートルほどの道には高さ3メートルある築地塀(泥土を積んで固めた塀)を築いて川の水を塞入れた。

これらは前代未聞の大掛かりな陣地の工事であり、もはや前方に待ち構える朝倉軍は脅威ではなかった。信長は大づく(大嶽)に堀秀政を向かわせ、朝倉義景に「日時を決めて一戦を交えよう」と伝えさせた。

(※ちなみに、この頃、足利義昭が信長包囲網を発動しており、武田信玄が信長の討伐に向けて動き出していた。いつまでも近江で時間を潰している余裕は信長にはなかったのである)

しかし、義景からの返答はなかった。10月22日、信長は虎御前山城に羽柴秀吉(このときから信長公記には木下藤吉郎ではなく羽柴秀吉で記されている)を守らせ、信忠を連れて横山城に戻った。

それからしばらく経った12月7日、朝倉・浅井の連合軍が動き出し、先鋒隊の浅井七郎が虎御前山城から宮部城に築いた築地塀を破壊しようとした。

すぐさま秀吉は塀を率いて応戦した。富田弥六、梶原勝兵衛、中野又兵衛、滝川彦右衛門、毛屋猪介ら羽柴隊の先駆け衆が敵兵を目掛けて突撃し、敵の編隊を乱すなどの功績を挙げた。

なお、滝川彦右衛門は信長の近習(護衛や雑用係)を務めた人物だったが、この度の近江出陣では大した武功も挙げられずに滅入っていた。

その葛藤を晴らすようにこの一戦で奮闘し、武功を挙げたことで滝川は再び信長の近習として返り咲いた。

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