闇夜を駆け回り、隠密に任務を実行していく黒装束の人々。これが、我々の中で一般的にイメージしがちな「忍者」の姿でしょう。忍者という存在は日本のみならず世界でも人気を博しており、彼らをテーマにした作品は枚挙にいとまがありません。
しかし、我々が知っている忍者は「創作の忍者」であり、「実在の忍者」ではないというのもまた事実です。
そこで、この記事では忍者という存在がどのように出現し、どのような仕事をしていたのか。このあたりを解説していきます。
「悪党」が忍者に変化していったと考えられている
まず、そもそも「忍者」という存在がいつから確認されるようになったのかを確かめていきましょう。彼らが有力な史料に顔をのぞかせるのは室町時代の南北朝期以降のことで、それ以前は「悪党」と定義されていたようです。
この「悪党」という言葉自体は日本史の教科書にも出てくる有名なもので、彼らは平安時代後期以降に定着した荘園公領制という支配システムのもと、領主として実権を握る権力者に反抗する集団と考えられています。
こうした人々荘園制として形成された組織の外部からこれを脅かそうとする存在であり、領主や幕府にとって悩みの種であったことは言うまでもないでしょう。
ただし、南北朝時代に入って荘園公領制が衰退していくと、悪党の活躍が減っていく代わりに「忍び」が登場するようになります。
領主の衰退は土地が空白化していくことを意味しますから、かねてより力をつけていた忍びたちが土着の勢力として覇権を争うようになりました。
こうして出現した忍びたちが有名な「甲賀衆」「伊賀衆」といった集団で、以後彼らは戦国大名や江戸幕府に仕えて忍びの者として暗躍していくことになるのです。
基本は情報収集が仕事だが、戦国では破壊活動にも参加
忍者の仕事は、あくまで情報収集が原則でした。当然ながら、世の中には「公開されている情報」と「そうでない情報」があり、敵と対峙する場合には後者の情報が極めて重要視されました。
そのため、忍者たちは昼に一般人として情報を収集し、夜間にも敵の拠点などに侵入することで情報を引き出しています。
ただし、上記の仕事はあくまで平時の忍者が従事した仕事であり、戦国時代には軍団の一員として様々な破壊活動に従事しています。
その内容は多岐に渡り、夜間の破壊活動や調略、放火に夜襲など、我々が想像する「忍者イメージ」に近い活動が行われていたことも事実です。
そのため、戦国時代において忍者という存在は戦略上欠かせなかったとさえ考えられており、表舞台にこそ出てきませんが重要な人材でありました。
もっとも、大名らは忍者を重用する一方で彼らの待遇は非常に悪かったという他なく、創作のように主君が彼らを可愛がるということはほとんどなかったようです。
さらに、戦国も終盤に突入すると、彼らが土着していた甲賀や伊賀といった京都周辺の土地が羽柴秀吉や織田信長の介入で失われていき、彼らも戦国の終焉と共に力を失っていったのです。
もっとも、伊賀と甲賀は後の時代でそれぞれ異なった道を歩むようになりました。伊賀衆は有名な「家康の伊賀越え」などで知られるように徳川家に対して尽くしたことから、江戸時代に入ってからも武士として取り立てられました。
しかし、一方で甲賀衆は武士としての身分を認められず、苦難の時代を送ることになります。