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信長公記・8巻その2 「長篠の戦い」

信長公記・8巻その2 「長篠の戦い」

信長公記・8巻その2 「長篠の戦い」
画像:長篠の合戦図(徳川美術館)

長篠の合戦

1575年6月21日(天正3年5月13日)、信長は息子の信忠と共に大軍を率いて三河国(愛知県東部の半分)へ向かい、途中、熱田(名古屋市熱田区)に陣を構えた。長篠城(愛知県新城市)の武田勝頼を討つためである。

熱田神社(熱田神宮)の八剣宮が荒廃しているのを見て残念に思った信長は、大工の岡部又右衛門に社殿の造営を指示した。22日は岡崎(愛知県岡崎市)に陣を構えて2日滞在し、24日に牛窪城(豊川市牛久保)に入った。

福田三河守と丸毛長照に牛窪城を守備させ、信長は城を出て25日に野田原(愛知県新城市)で野営して26日は設楽原(愛知県新城市)の極楽寺山(新城市上平井字)に陣を構えた。

信忠は同じく設楽原の新御堂山(上平井字)で陣を構えた。設楽原は丘に囲まれた窪地であり、織田・徳川の連合軍3万は設楽原の前方に広がる山々に敵が潜んでいないか警戒しながら陣の守備を固めた。

先鋒となる徳川軍は設楽原の弾正山(竹広字宮川)に陣を構えた。織田軍からは羽柴秀吉、丹羽長秀、滝川一益が先鋒となり、有海原(滝沢川を渡った対岸の平地)に陣を構えて出撃を待った。

そして、徳川・羽柴らの陣には騎馬隊を防ぐための柵(馬防柵)が立てられた。設楽原を囲む有海原は右に鳶の巣山(長篠の南西の山)から西に深い山々が続き、左は太山と鳳来寺山(長篠の西の山)が連なっていた。

信長公記・8巻その2 「長篠の戦い」
画像:馬防柵(愛知県新城市長篠)

さらに、鳶の巣山と太山の間には大野川(のりもと川)が山々を通り抜けるように流れており、鳶の巣山と太山は3.3キロメートル(30町)ほどしか離れておらず、鳳来寺山から流れる寒狭川(滝沢川)が大野川に合流していた。

寒狭川と大野川の南西に位置するのが長篠城である。つまり、攻めにくい難所。武田勝頼は、長篠で陣を構えて織田軍と交戦すれば有利に戦えたのに、7つの小隊を長篠に残して本隊は寒狭川を越え、有海原に進軍してきたのである。

武田軍は甲信(長野県と岐阜県中津川市の一部)、遠江(静岡県の大井川から西)・駿河(静岡県中部と大井川から東)、三河(愛知県東部の半分)から集まった戦力と、西上野(群馬県)の小幡信貞、田峯(愛知県設楽郡)の菅沼氏、武節(愛知県豊田市)の奥平貞能など総勢15000を超えていた。

それらは設楽原を正面にして13個所に散らばり陣を構えていた。織田軍と武田軍の陣地は2キロメートルほどの距離しかなかった。この状況に信長は、徹底的に武田軍を壊滅する決意をした。

信長は、まず酒井忠次を大将にして織田軍の鉄砲隊500人と徳川軍の鉄砲隊・弓隊を2000人を預け、監視者として金森長近、青山新七の息子、佐藤六左衛門、賀藤市左衛門らが4000の兵を率いて出撃した。

酒井の部隊は6月28日の戌の刻(午後8時の前後2時間)に大野川を越えて長篠の南の山から周って進み(武田の本隊に見つからないように)、29日の戌の刻に鳶の巣山を攻めた。

それから長篠城へと攻め入り、数百名の鉄砲隊が銃を放って武田の兵を蹴散らし、敵陣を焼き払った。長篠城を守備していた武田の7つの小隊は、思いがけぬ織田軍の攻撃に打つ手がなく敗北し、鳳来寺山を目指して逃げて行った。

信長公記・8巻その2 「長篠の戦い」
画像:楊洲周延・画「鳥居強右衛門敵捕味方城中忠言」(東京都立図書館)

一方、設楽原にある徳川の本陣では、信長が小高い丘から敵軍の動向を監視していた。そして、その前方には前田利家、佐々成政、福富秀勝、原田直政、野々村三十郎らが率いる織田の鉄砲隊1000人が守りを固めていた。※

※(近年の史料では織田・徳川の連合軍が率いる鉄砲隊3000となっているが、初版の信長公記では1000挺と記されており、のちの信長公記が3000挺と修正されていることが基となっている)

しばらくして織田・徳川の連合軍が慌ただしい動きを見せると、それに反応した武田の本隊が動き出し、先鋒(一番手)で突進してきたのは山県昌景が率いる精鋭部隊だった。

山県の部隊は太鼓を鳴らしながら勇ましく攻めかかってきたが、織田・徳川の鉄砲隊に打つ手がなく退いた。次(二番手)に武田信廉が突進してきたが、織田・徳川の鉄砲隊によって半数以上が討ち取られた。

次(三番手)に攻めかかってきた小幡信貞が率いる赤武者(赤備え。赤い鎧・武具に身をまとった武者)の騎馬隊も織田・徳川の鉄砲隊に半数以上を討ち取られて退いていった。

四番手に突撃してきた黒い武具で身をまとった武田豊勢の率いる部隊は織田・徳川の鉄砲隊に全滅させられた。入れ替わり立ち代わりで突撃してくる武田軍に対し、織田・徳川は一人も武将を出さずに鉄砲隊のみで応戦した。

武田の五番手は馬場信春の部隊だったが、信長は鉄砲隊に加えて足軽も出撃させ敵兵を切り崩した。

信長公記・8巻その2 「長篠の戦い」
画像:松本楓湖・画「馬場信春」(恵林寺)

翌日(6月29日)は日の出の刻(午前8:00)に出撃し、織田軍は東北東を目掛けて戦い、午後2:00前後まで続いた。武田軍の部隊は果敢に攻め入ったが織田・徳川の部隊に討ち取られて壊滅状態だった。

生き残った兵や武将らは勝頼のもとへ引き返し、敗北が現実的になると鳳来寺に向けて退散していったが織田軍は退散する武田の部隊を追撃し、ことごとく討ち取った。

設楽原の戦いで織田軍が討ち取った武田の武将は山県昌景をはじめ馬場信春、小幡信貞、横田綱松、土屋昌次、土屋直規、横田康景、真田信綱、真田昌輝、杉原日向守、高坂昌澄、川窪備後、甘利藤蔵、甘利利重、根津甚平、名和無理介、和気善兵衛、土屋備前守、仁科盛信、奥津定元、岡部正綱、岡部竹雲斎、高森恵光寺快川など多数が討死にした。

このほかにも武田信実、内藤昌豊、山本信供、金丸忠次、常田春清、原昌胤、原盛胤、小宮山忠房、安中景繁、望月信永、望月重氏、米倉重継、曽根源六、水原茂忠、津金胤時、米倉正継、油川顕重、油川宮内、岩手左馬之助、脇善兵衛、鎌原之綱、松平伊忠、祢津是広、下浪合胤成、樋口兼周など。

武田軍は討ち取られたもの以外にも逃げる途中で餓死した者や川で溺死した者なども含み、武将をはじめ戦死にした兵が1万人を超えた。※

※(近年の研究では長篠の戦いに出陣した武田軍1万人超えというのは過大であるとされ、実際は5000に満たなかったとみられている)

退却した武田軍の陣地の虎口(城郭や陣営などの最も要所にある出入り口)には勝頼が大切にしていた駿馬が置き去りになっていた。この馬を信長は持ち帰り、以降は織田家の厩舎(馬小屋)で飼育された。

戦いを終えた信長は三河国の後始末を行ったあと、7月3日に岐阜城へ帰還した。家康は軍を率いて駿河に出陣し、要所を焼き払ったあとに居城である浜松城に帰還した。

遠江(静岡県西部)の高天神城では武田勝頼が立て籠もり、もはや落城も時間の問題だった。また、岩村城(岐阜県恵那市)には秋山信友、大島杢之助、座光寺為清ら武田の家臣が立て籠もっており、織田信忠が直ちに城を包囲して攻め入って討ち取った。

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