真田氏のプライドを懸けて挑んだ真田幸村「大坂の陣」(前編)
画像:真田幸村の像(上田駅)
1615年、大坂夏の陣によって豊臣家が滅びると安土桃山時代が終焉を迎え、徳川将軍が朝廷に代わり全国を統治するようになり、以降、265年にわたって江戸時代が続くことになります。
しかし、なかには「豊臣時代のほうが良かった」と懐かしむ人もいて、秀吉が主役の物語「太閤記」を楽しむ町人も少なくありませんでした。しかし、太閤記に登場する家康は豊臣家に仕えていた頃。
徳川幕府としては快くありません。そこで幕府は、秀吉を題材とする歌舞伎や芝居などは羽柴秀吉から真柴久義に名前を変えて使用するよう注意を促したりしたんです。
そういった情勢の中、秀吉と共に親しまれたと言われる武将が真田信繫。「幸村」という名前で歌舞伎や芝居に登場し、家康に歯向かった最後の武将としてヒーローのように取り上げる台本もあったとか。
そこで今回は「幸村を生んだ真田家」と「大坂の陣」を背景に、「真田幸村」の"最期の生き様"に追ってみたいと思います。
幸村の祖父と父
画像:真田幸正氏所蔵「真田昌幸」(東京大学史料編纂)
真田氏は滋野氏を先祖とする一族で、信濃国小県(長野県小県郡真田町)を所領する由緒ある武家でした。しかし、幸村の祖父・幸隆の時代に、武田信虎や村上義清、諏訪頼重らが侵攻し、小県を占領されてしまいます。
武田氏は隣国の上野国(群馬県の前橋または高崎)へ逃れ、小県の奪還を誓いながら苦難の日々を過ごしました。
その5年後、運命とは数奇なもので幸隆は武田家に仕えることになり、信虎の息子・武田信玄の家臣となります。一説によると、信濃の制圧を掲げていた信玄に便乗して小県を取り戻すのが狙いだったようです。
家臣団の中でも一目置かれる存在になると、1551年には利上義清に奪われた小県の戸石城を奪還しました。まさに狙い通り。その後、幸隆の跡を息子の昌幸(幸村の父)が継ぎ、真田氏は大名の仲間入りを果たします。
信長包囲網の最中に信玄が病死すると勝頼が跡を継ぎますが、天目山の合戦で信長・家康の連合軍に武田家は滅ぼされ、領土は信長の所領となり、本能寺で信長が没すると、甲斐・信濃の領土を目当てに各地の武将が群がりました。
小大名の昌幸は、北条氏直や上杉景勝、徳川家康など手を組む(盟約を結ぶ)相手を次々と変えて真田氏の存続に力を注ぎます。つまり同盟は、武田家が滅びて孤立状態の真田氏が生き残るために必要な手段だったのです。
そういった"世渡り"を繰り返しながら真田家を守っていたわけですから、昌幸は苦労したと思います。そして、真田家の転機となったのが関ケ原の戦いでした。秀吉の亡き後、家康率いる東軍と豊臣勢(西軍)が衝突した合戦です。
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